特別なOnly oneだと感じる歌

「ヘリトーブシュー便り」より
2009年07月08日

 
三人の素晴らしい方々から
含蓄に富んだコメントをいただきました。
 
ありがたいことです。
 
 
こうやっていろいろな意見を拝見できるのは
本当に貴重ですね!
 
一人で考えてたら絶対に思いつかないことばかりです。
 
 
深山さん、なべっちさん、杉岡さん、
どうもありがとうございました。
 
 
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深山さんのコメントより
>天から与えられた才能を
>余計なことを考えずに出し切ることこそ
>人生においてすべきことのひとつなのかなとも思います。
 
 
天から与えられた才能は、もしかしたら、
「無」とか「無我」にならないと
発揮できないものなのかもしれませんね。
・・・一概には言えないと思いますが。
 
 
 
我が出てくると、きっと疑問も出てくると思います。
>「殴り合って、何になるんだろう」
>「なんで、こんな苦しいことをしているんだろう」
 
「自分にとって」意味があるのか?
「自分にとって」メリットがあるのか?という疑問です。
 
 
 
非常に優れた腕を持つ仏師は、木や石の中から
仏像を掘り起こすという表現をするそうですね。
完全な形のものが埋まっているから、
自分の役目はそれを出すこと、という感覚なのでしょう。
 
 
そこには「我」がないような気がします。
 
 
 
博物館に収められているような、
何百年も昔の国宝級の器や壺は、
「その形になるべくしてなった」という感じがします。
 
 
作られた当初は○○さんが作ったというのが
知られていたのかもしれませんが、
「見てくれよ!俺が作ったんだぜ!」
というのがほとんど感じられない気がします。
 
 
 
 
杉岡さんのコメントより
>「天才は無心である」
>=「天才はバカである」
>という深山さんの解釈から、
>宮沢賢治の「虔十公園林」が浮かびました。
>
>「あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。
>
> たゞどこまでも十力の作用は不思議です。」
>
>風の又三郎の
>「最も愚鈍なるもの最も賢きものなり」
>も同じですね・・・
 
 
「かしこい」と「賢い」については、
【イーハトーブ乱入記】(ますむらひろし著)に記述があります。
(杉岡さんのコメントへの返信にも書きましたが)
 
>・・・ここで賢治は彼の大ワザのひとつ
><字体の使い分け>までしての、
>入魂のメッセージなのだ。
>[賢い]をひらがなにして[賢くない]を漢字にして、
 
>「あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。
 
 
この「誰がかしこく、誰が賢くないか?」は
「そこらへんの親父」が言うのではなく、
虔十のことを「少し足りない」と思っていた子どもが、
一生懸命勉強して、アメリカの大学教授になって帰国した時、
虔十が植えた杉林を見て言う言葉です。
 
 
なんとなくのレベルで思うことは、
「かしこい」と「賢い」の違いのひとつに
「我の有無」という点があるんじゃないかな、
ということです。
 
もちろん、これが全てじゃないと思いますが。
 
 
虔十のように最初からかしこかった人もいるし、
大学教授になった子どものように、賢くなってから
「かしこさとは何か?」
に気づく人もいるのかもしれません。
 
 
 
 
虔十も具志堅氏も、自分・我・私という視点が
少ないのかもしれないと思いました。
 
 
虔十は、杉が成長した暁には、自分が感謝されるとか
えらいと思われるとか、そんなことは一切考えずに
「ここに杉を植えたい」と思ったから、
植えたんだと思いますし、
 
 
具志堅氏は、チャンピオンになりたいとか
ファイトマネーがほしいとか、そういうことを
一切考えなかったわけじゃないと思いますが、
単に名誉とお金がほしいだけだったら、
わざわざ危険なボクシングを選ばなかったのでは?
 
 
名誉やお金以上の
「何か強いもの」があったからじゃないかなと思います。
 
 
 
>「本当ノ勉強ッテ、何ナノダ? 
> 本当ノ<かしこさ>ッテ、何ナノダ?」
 
この答えは当分出せそうにないですけど、
 
・我を超えた世界に気づけることとか、
 
・目先のちっぽけな事柄にとらわれず、
 時間的・空間的に広い範囲で考え、行動できること、
 
そんなことも含まれるような気がします。
 
 
 
なべっちさんのコメントより
>先輩から「アピールが足りない」と言われることもありますが、
>自利の心で仕事をすると逆に疲れるんですよね。
 
だいぶ前ですが、ある方の講演会で「盥の水」の話がありました。
 
盥の水を自分の方へ引き寄せても、水は縁にぶつかって
結局、反対側に流れて行ってしまいます。
 
しかし、盥の水を相手に向かって押し出せば、
水は反対側の縁にぶつかって、
自分の方へ自然に流れてきます。
 
 
もともとの意味での
「情けは人のためならず」みたいな感じですね。
 
 
「誰かのために」の方がパワーが出るのかもしれません。
 
自分が誰かの役に立ってる!というのは、
小さい子にとっても、ものすごく嬉しい感覚ですから。
 
 
赤ちゃんを産んだばかりのお母さんが、
3時間睡眠でも何とかなるのは
(私でも何とかなったし・・・)
自分を必要とする存在がいるからだと思います。
 
 
そういうのがない状態で、
「とにかく、毎日3時間睡眠でガンバレ」といわれても
続かないでしょうね。(個人差があると思いますけど)
 
 
利他の方が、自然なのかもしれませんね。
 
 
 
 
 
深山さんのコメントより
>人と比較するから、出て行きたくなる。
>特別な存在になりたいという欲求でしょうか。
>でも、皆それぞれ特別で絶対的な存在なのだから、
>あえてでしゃばらなくてもいいのですね。^^
 
 
誰かと比較して、自分の方がマシと喜んだり
全然ダメだぁと落ち込んだり、しょっちゅうやっていました。
(今でも時々ありますが・・・)
 
 
これって、自己承認が足りないからだそうです。
 
 
自分で自分を認めきれていないから、
他人が気になり、他人の評価・他人の視線が
気になるそうです。
 
 
だから、出て行きたくなるし、
他人から「特別な存在」として認めてもらいたくなる。
 
 
謙虚・謙遜と自己承認は違うと思うのですが、
日本の風潮というか雰囲気では、
おおっぴらに自分を称賛すると、
自分大好き人間・自信過剰・自己チューみたいな目で
見られてしまうことがありますよね。
 
 
もっともこれも最近は薄れてきてますが、
それでも、コミュニティの空気によっては、
結構な偉業を達成してからじゃないと
口ばっか・自意識過剰と言われかねない・・・(苦笑)
 
 
 
 
 
私の母が最近になって言っていたことですが
「本当にやりたいことを見つけられるかが重要。
 それを見つけられた人は幸せだよね」
 
 
本当にやりたいことを見つけて、無我夢中になれれば、
他人のことは気にならなくなりますし、
損得や我を超えた世界に気づけるかもしれません。
 
そうなって、自分が本当に満たされた時、
すべての人間がユニークで大切な存在だと
心から思えるのかもしれません。
 
 
自分も他人も
>皆それぞれ特別で絶対的な存在
だと気づくことも、
「本当ノ勉強」「本当ノ<かしこさ>」において、
必要なことかもしれませんね。
 
 
 
世界に一つだけの花
槇原敬之 – アコースティックバージョン

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♪この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
 バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている
 
 それなのに 僕ら人間は 
 どうしてこうも比べたがる?
 一人一人違うのに その中で一番になりたがる?
 
 そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
 一人一人違う種を持つ
 その花を咲かせることだけに
 一生懸命になればいい
 
 
♪No.1にならなくてもいい
   もともと特別なOnly one
 
 
 
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