2021年
2月
21日
2月4日から息子はずっと家にいる。
高校入試のため、学校は登校禁止になっているからだ。
18日から期末テストだというのに、毎日パソコンでゲームをやっている。
ずっと遊んでいるので「勉強しなくていいの?」と言うと、
息子はすごく怒る。
「パソコンを使っているのは、検索しようと思ったからで、
ゲームをしようと思ったからじゃない」
「スマホを見てるのは、試験範囲を確認しようと思ったからで、
動画を見ようとしたわけじゃない」
2月17日は早起きして、美術の作品作りと宿題をやっていた。
「やることがそんなにたくさんあるのに、なんで早くやらないの?」
と彼に言ったら、
「さぼっていたわけじゃない、計画通りに行動しているだけ」
という返事。
本当に屁理屈ばっかり!
从二月四号起,我儿子一直在家里。
因为入学考试,学校不让去学校。
从二月十八号起到二十二号,有期末考试。
他每天一直玩儿网络游戏。
我问他”为什么你不学习?”
他非常生气地说:
”我使用电脑不是因为想玩游戏,是因为想检索”
”我使用手机不是因为想看Youtube,是因为想确认考试范围”
二月十七号,他起得很早,开始做艺术课的作品和其它的作业。
我对他说”要做的事情那么多,为什么不早点着手?”
他非常生气地说”我不是想偷懒,是想按计划行动”
他真是一个劲地强词夺理!
2021年
2月
14日
子どもの頃から甘えるのが下手でずいぶん損してきたと思う。
男性に何かを頼むのがとても苦手だ。
男性は女性に頼られたいと思ってるとかいう人がいるが、
それは人によって違うと思う。
男性に頼るくらいなら自分でやる。
女性が甘い言葉でお願いすると、男性は喜ぶとかいう人もいる。
甘えるって私には絶対無理。
夫からは「言い方。それはお願いじゃなくて命令」と言われる。
それは正しい。
夫に対しては常々「自分のモノ、片づけて」
「お風呂掃除して」と言っているから。
でも「宝石買って、ブランドバッグ買って」などと
言ったことは一度もない。
彼に頼むくらいなら自分で買う。
と言っても、今のところ、着飾ってお出かけする機会なんてないけど。
我从小孩子的时候起就不擅长撒娇,觉得很吃亏。
我不喜欢请男性帮忙。
有人说男性想被女性依靠,可是我想那是因人而异的。
与其依靠男性,不如自己干。
有人说女性撒娇地拜托的话,男性会很高兴。
我怎么也不会撒娇。
我老公说‟你的口气不是拜托而是命令”
他说得对。
我常常对他说‟把你的东西收拾了”,‟把浴室打扫了”
但是我对他没说过‟给我买个珠宝首饰、品牌包吧。”
与其求他,不如自己买。
虽然现在没有机会穿上盛装打扮出门。
2020年
11月
15日
匂いの記憶というのは、長期間残るものらしい。
言語化されないので、意識することはほとんどないが、
同じ香りに出会ったときに、すっかり忘れていたことを思い出す。
海の匂いは、子供の頃の海水浴の思い出につながる。
ちょっとだけ生臭いような潮の香りは、
遠い夏の記憶を呼び起こす。
雨の匂いは、最近感じることが少なくなった。
数年前、地下鉄を降りたときに雨の匂いを感じて
「雨が降ってるかもしれない」
と夫に言ったら笑われたが、地上に出たら雨が降っていた。
雪の匂いも、感じなくなった。
子供の頃の冬の朝、布団の中で、
冷たくて尖った匂いを感じた日は雪が積もっていた。
「カエルの匂い」も子供の頃の記憶だ。
これは、父の実家の周辺にある水田の匂いのことだが、
そこにはカエルがたくさんいたので、
「カエルの匂い」と呼んでいた。
香港に行くと「香港の匂い」がする。
八角の香りが混ざった少し油っぽい匂いを感じると、
香港にいることを実感する。
韓国の扶余の古いバスターミナルの待合室は、
とても不思議な匂いがした。
それは、化学薬品のような、植物のような、
何とも言えない匂いだった。
花火のにおいは夏の定番だ。
毎年、8月下旬に実家の庭で花火大会をやっていた。
しめくくりはいつも線香花火だ。
金色の火花と火薬のにおいが夏の終わりの象徴だった。
今年の花火大会はできなかったが、
来年は夏の終わりの匂いをしっかり味わいたい。
气味的记忆似乎会长期残留。
一般不会被语言化,所以几乎没有意识到,
但是在遇到同样的气味的时候,
会想起完全忘记了的事情。
大海的气味能让我想起小时候的海水浴。
稍微有点儿腥味的海水气味,
唤起了遥远夏的天的记忆。
最近很少感觉到雨的气味了。
几年前下地铁的时候,我感觉到了雨的气味。
我对我老公说“现在可能在下雨。”
他听了后笑了,但是一出车站外面就在下雨。
雪的气味也感觉不到了。
小时候冬天的早上,
在被子里感受到又冷又冲鼻子的气味的日子,
院子里总是积着雪。
“青蛙的气味”也是小时候的记忆。
这是我父亲老家附近的水田的气味。
那里有很多青蛙,所以我叫它“青蛙的气味”。
香港有“香港的气味”。
一闻到混合了八角香和油腻的气味,
我就感觉到我正在香港。
韩国扶余的旧巴士候车室里有一股不可思议的气味。
那是像化学药品一样,像植物一样,无法形容的气味。
烟花的气味是夏天的必备品。
每年八月下旬都会在老家的庭院里放烟花。
烟花总是昙花一现。
金色的火花和火药的气味是夏天结束的象征。
今年没能放烟花。
我希望闻到明年夏天结束的气味。
2020年
11月
08日
子供の頃、庭には、たくさんの種類の植物があった。
梅、金木犀、柿、桃、木蓮、山椒、紫陽花、薔薇、梔子、沈丁花、
芝桜、鈴蘭、小菊、菖蒲、百合・・・
植物が多かったせいか、爬虫類や昆虫も庭にいた。
トカゲはしょっちゅう見かけた。
出窓の下には蟻地獄の住処があった。
モンシロチョウもよく飛んできた。
紫陽花の葉の上には大きなカタツムリがいた。
トカゲのしっぽを押さえつけて、しっぽを切らせたり、
アリジゴクに蟻を落としたりして遊んでいた。
蟻はいつも逃げ出していたので、アリジゴクは、
一体何を食べているんだろうと思っていた。
ある日、庭に大きくて美しいアゲハチョウが飛んできた。
私は虫取り網をもってきて、花にとまるのを待った。
花にとまって蜜を吸い始めたのを見届けると、
後ろから静かに近づいて網をかぶせた。
そして、虫取り網の中で暴れているアゲハチョウの
翅の付け根を押さえようとした。
アゲハチョウは予想よりずっと強い力で暴れた。
私はびっくりして、急に怖くなり、逃がしてしまった。
空高く飛んでいくアゲハチョウを見送りながら、
ホッとしたのを覚えている。
それ以降、虫を捕まえることは少なくなった。
息子は小さい頃、虫を怖がって泣いた。
小学生くらいになると、カブトムシが好きになったが、
私のように、自分で虫を捕まえることはなかったようだ。
高校で生物部に入った彼は、時々、昆虫の写真を撮ってくる。
学校の中に狸が住んでいる森があるので、
いろいろな昆虫がいるそうだ。
この間、彼はタマムシの写真を見せてくれた。
教室に入ってきたのを捕まえて、写真を撮って、
森に逃がしたと言っていた。
彼にとっての「虫捕り」は、スマホで撮ることらしい。
小时候,院子里有各种各样的植物。
梅树、金桂、柿子、葡萄、桃树、紫玉兰、
花椒、绣球、玫瑰、栀子、瑞香、
芝樱、铃兰、小菊、菖蒲、百合、等等。
因为植物很多,院子里也有很多爬虫类和昆虫。
经常能看见蜥蜴。
凸窗下面有蚁狮的窝。
常常有白粉蝶飞来。
绣球的叶子上有很多很大的蜗牛。
有时候我按住蜥蜴的尾巴,故意让它自己断掉尾巴。
有时候把蚂蚁扔到蚁狮上。
因为蚂蚁总是在逃避,所以我好奇蚁狮到底吃什么呢?
有一天,院子里飞来了一只美丽的大凤蝶。
我拿着捕虫网,等着凤蝶停在花上。
当我看到它停在花上开始吸蜜的时候,
我悄悄地从后面靠近,扣上了网。
然后,我想要按住在捕虫网中扑腾的凤蝶翅膀根儿。
凤蝶的力量比预想的大得多。
我吓了一跳,突然害怕起来,把它放跑了。
我记得一边目送着飞上天空的凤蝶,一边松了一口气。
从那以后,我很少捉虫子了。
我儿子小时候经常被虫子吓哭。
上小学后,他喜欢上了独角仙,
但是他没有跟我一样自己捉虫子。
他在高中加入了生物部,有时会拍昆虫的照片。
他们的学校里一片狸生息的树林,
据说那里有各种各样的昆虫。
前几天,他给我看了玉虫的照片。
说是在教室里抓住的,拍了照片,把它放了。
对他来说,“捉虫子”好像就是用手机拍个照。
2020年
10月
25日
子供の頃、庭に柿の木があった。
柿と言っても渋柿である。
その実は筆の先のような形で、
「筆柿」という種類に似ていたが、
「筆柿」よりはるかに巨大だった。
自重に耐えられず、色づく前に落ちてしまうことも多かった。
柿の実がオレンジ色になると、
父は柿の木に梯子をかけてのぼり、実をとった。
取った柿の実は渋抜きする。
まず、乾いた布で拭いて汚れを落とす。
次に柿と焼酎を厚手のビニール袋に入れる。
それをプラスチックの容器に入れる。
その容器を2週間ほど物置に置いておく。
渋みが抜けて甘くなり、柿は柔らかいゼリー状になる。
鮮やかなオレンジ色の甘い柿を
スプーンですくって食べるのが好きだった。
一度だけ、渋味が抜け切っていなかったことがあった。
口に入れた途端、口内が砂で一杯になったような感じがした。
長野県に住んでいた伯父もこの柔らかい柿が好きだった。
彼は毎年野菜や味噌を父に送ってくれるので、
父はお礼として、この柿を送っていた。
12年前に実家を建て替えた時、柿の木は切ってしまった。
伯父は他界してしまった。
柿の季節になると、スプーンですくって食べた、
あの柿の味が恋しくなる。
小时候,院子里有两棵柿子树。
说是柿子,其实是涩柿子。
※日本的柿子大多是甜柿子。
形状跟笔尖一样的,和“笔柿”的种类相似,
可是比“笔柿”大得多。
无法承受自重,往往会在上色前就掉下去。
当柿子的果实变成橙色的时候,
我父亲把梯子搭在柿子树上,摘下果实。
摘下的柿子要去涩。
最初用干布擦去污垢。
然后把柿子和烧酒放进一个厚塑料袋里。
再把那个放进一个塑料容器里。
那个容器放在小仓库里两周左右。
涩味就消失了,变得很甜,柿子变成柔软的果冻状。
我喜欢用勺子舀着鲜橙色的甜柿子吃。
只有一次,涩味没完全去掉。
刚一放进嘴里,就觉得嘴里好像满是沙子。
住在长野县的大伯也喜欢那种软柿子。
因为他每年都会给我父亲寄蔬菜和大酱,
所以我父亲为了答谢他,每次都回赠那种柿子。
12年前老家重新盖房子的时候,两棵柿子树被砍掉了。
大伯也去世了。
一到柿子的季节,就怀念用勺子舀着吃的那种柿子的味道。
2016年
12月
30日
20160724
朝イチで寿山公園へ。
ここは昭和天皇が皇太子の時代に訪れた場所。
寿山という名前になっているが、高さは360mで、山というよりは丘。
といっても、高雄港や町の景色が一望できる。
若者のデートスポットだそうで、マックのテイクアウトのゴミとか、
プラスチックの飲み物の容器が放置されていた。
おそろいの青いTシャツを着た学生のグループが階段を上ってきた。
そして、おしゃべりしたり、笑ったりしながら、
リラックスした雰囲気で、せっせとゴミを集め始めた。
肩肘張ったところはなく、ごくごく自然な動作だったので、
ここの掃除は、日課というか、日常的な作業になっている感じだった。
Tシャツの背中には、日本語で
「努力はうそをつかない
負けて泣くより勝って泣け」
と書いてあった。
青いTシャツは部活のユニフォームなのかな?
バスケ部とかバレー部という感じではなかった。
卓球部かな?
ツアーの参加者たちも彼らのゴミ拾いを見ていて、
作業が終わる頃に拍手していた。
学生たちは「ええっ??」と戸惑っていたようだったが、
<言葉の通じないおじさん・おばさんが
自分たちのゴミ拾いに感心している>
というのはわかったようで、ちょっと照れくさそうにしていた。
続いて日月潭湖畔へ。
もともとは日潭と月潭という二つの潭があったそうだ。
日本統治時代にくっつけて、日月潭にしたとのこと。
水力発電に適した場所なんだとか。
日月潭の深さは平均30メートル。
1999年9月21日に台湾中部の南投県集集鎮付近を震源とする、
M7を超える地震の際、湖畔の文武廟も日月潭のリゾートホテルも
大きな被害を受けた。
台湾の西側は地震は少ないそうだが、地震が起こった場合は、
規模の大きな地震になるそうだ。
なお、南投県は台湾唯一の「海ナシ県」。
平地には主に漢民族が住み、山地には少数民族が住んでいるという
説明があった。
日月潭の少数民族がもっとも人数が少なく283名だけ。
人数が多いのが花蓮のアミ族。
29万人いて、16ある少数民族の半数以上がアミ族らしい。
ガイドさんの話によると、少数民族は、歌やスポーツの分野では
秀でた人が多いそうだ。
台湾のプロ野球の選手のうち、漢民族と高砂族の比率は半々。
少数民族は文字通り「少数」なのだから、
野球という分野だけでも、スポーツが得意というのは納得できる。
日本のプロ野球で活躍した郭 源治、郭 泰源、日ハムの陽 岱鋼は
少数民族らしい。
特に高砂族は歌が上手なんだとか。
ガイドさんは「生まれつき上手い」と言っていた。
文武廟へ。
門の入り口の数によってランクが決まるそうだ。
5つ:社長クラス、3つ:部長クラス、1つ:係長クラス。
龍の指の数もランクと関係している。
皇帝の御物の龍は、指が5本ある。
神様関係の龍は4本、王様レベルだと3本。
皇帝の方が神様より偉いのか・・・!!
道教の廟では、お供え物はお参りの後に持ち帰る。
神様のパワーがつくらしい。
おみくじは横浜中華街の関帝廟と同じ。
http://www.m2-dream.net/?p=2129
「神筈」(しんばえ:三日月型の神具)を投げて、
質問してもいいかどうかを神様にお尋ねすることからスタートする。
質問してもOKとなれば、くじを引く。
日本の場合、神社でおみくじを引くと、
結果が書かれた紙を境内の木に結び付けて置いてきてしまうが、
道教のおみくじは、その内容に沿って行動する必要があるため、
結果の紙は、必ず持ち帰る。
この後、バスで台北へ移動。
最終日の食事は、オプショナルツアーの位置づけ。
ガイドさんと一緒におススメのレストランに行ってもいいし、
自分たちでいろいろ歩き回って、よさそうなお店に入ってもいい。
我々はオプショナルツアーには参加せず、
街歩きをすることにした。
三創生活というショッピングセンターに入ると、
なんと!
東離剣遊記/サンダーボルトファンタジーの展示をやっていた!
霹靂社の人形劇には固定ファンがいるせいなのかもしれないが、
結構大勢の若者が来て、特設ショップで買い物したり、
人形の展示の写真を撮ったりしていた。
夫もなんだかやたら熱心に写真撮影していた。
夕食はちょっとひなびた感じの小さいフードコート。
超プチプライス・・・おいしかったけど。
20160725
ついに最終日。
まずは、龍山寺。
こちらに祭られているのは本尊は観世音菩薩。
しかし、道教の神様も祭られている
台湾では、仏教と道教が習合しているらしい。
日清戦争での清の敗北により、台湾は1895年に日本に割譲された。
日本統治下では仏教はOKだったが、
中国の教えとされる道教はNGだったそうだ。
しかし、長い間の信仰が簡単に消えるわけがなく、
仏教を隠れ蓑にしたのか、習合していったとのこと。
かなり融合が進んでいるので、
多くの台湾が仏教の教えと思っているものが
実は道教の教えだったりするらしい。
ここに祭られている関羽将軍は経営の神様。
軍隊の経営(運営?)が上手だから、という理由。
文昌帝君は学問の神様。
昔は受験シーズンには実に大勢の学生がお参りに来ていたそうだ。
受験票を置いて祈願するんだとか。
でも、「神頼み」じゃだめ。
自力で頑張って勉強して、いい点数を取らないといけない。
「もし、同じ点数のライバルがいたら私を合格させてください」
というお願いなら聞いてもらえるらしい。
息子にお守りをねだられたが、
中国の神様は厳しいんだ、努力しないヤツを助けたりしない!
お守り買ったらOKなんて気持ちじゃ、ご利益はないぞ!
と強く言ったら、あっさり引き下がった。
ガイドさんの話、全く聞いてなかったのか・・・
日本と台湾のお寺の違いとして説明されたのは、
台湾のお寺には若い人が大勢来るということ。
台湾人は小さい頃から、お寺に連れて行かれるという。
両親や祖父母など身近な大人が連れて行くのだろう。
小さい子どもはお寺の壁の絵にまつわるお話などを
大人に教えてもらう。
そういうこともあって、自分の家の近所のお寺に
なついているそうだ。
困ったことがあれば、親よりも神様に相談するんだとか。
お年頃になれば、親には言えない相談事も当然出てくるだろう。
言えないというか、言いたくないんだろうけど。
そういうときに、神様にご相談できるというのはいいなぁ。
自力で大きくなったようなナマイキな年頃の若者が、
自分から神様に聞いてみようという気持ちになるとは、すばらしい。
<台湾の文明時代>(と、ガイドさん言っていた)の建物は
オランダ統治時代(1662年 – 1683年)のものから始まる。
龍山寺は創建から300年くらい。
どの時代の建物も大切だから保存する。
「ここが韓国と違うところです。
あのひとたちは<なかったことにしたい>と考えてるみたいなので」
という、ガイドさんのコメントが印象的だった。
日本の統治下では、内地人(日本人)、本島人(台湾の漢民族)などの
差別はあったそうだが、統治者が清や国民党のままだったら、
近代化はムリだったと考える人が多いそうで、
そのせいか、基本的に親日の人が多いとのこと。
忠烈祠で衛兵交代を見た。
こちらは屋外なので、移動距離が長く、炎天下では大変そう。
ガイドさんのお話によると
初日に見た中世紀念堂で衛兵交代をやっていたのが空軍。
こちらは建物の中なので所要時間は10分。
忠烈祠は海軍。
入り口の門からスタートして長い広場を横切って奥の建物まで行って
戻ってくるので、所要時間は20分。
炎天下のパフォーマンスも、
交代の時間になるまで微動だにせず人形のように立っているのも、
軍隊でやることの中では「ラク」だとのこと。
いったい何をやってるんだろう・・・??
衛兵交代の担当者はルックスで選ばれるとのことで、
基本的にイケメン揃いだという。
イケメンというより、涼やかな目元の好青年って感じ。
・・・というのはオバサンの感想。
1911年は中華民国元年。
なので、2016年は中華民国年暦では105年。
この105年という表記が正式・公式。
台湾の人はすぐに換算できるんだろうなぁ。
昭和までは、西暦換算がすぐにできたけど、
平成になってからは、基本は西暦で、
必要があれば平成に直してしている感じ。
続いて九イ分観光。
九イ分という名前の由来は、
この地には9家族しか住んでいなかったから。
生活に必要なものは、基隆まで代表者(?)が買いに行っていた。
地名がないと不便だということで「九イ分」になったとのこと。
清の時代に九イ分で金脈がみつかったため、
ゴールドラッシュが起こった。
台北よりもにぎやかだった時期もあったという。
台湾の北部の最初の映画館は九イ分に作られたそうだ。
九イ分観光を楽しみに強いたけれど、
観光名所なだけあって、人人人人・・・・
狭い階段いっぱいに人人人人人・・・・
昼食を取ったレストランは眺めがよくてすばらしかった。
お料理は田舎の親戚に遊びに行ったときに出される料理
という感じだった。
人ごみの中を歩くのが疲れたので、脇道に逸れて、
日本とは違う雰囲気の住宅地を歩き回った。
暑くて疲れてきたのでバスへ引き返すことにした。
階段を降りきって少し歩いたところにある小さな売店で
棒アイスを買った。
カッチンカッチンに凍っていて、
アイスというよりは氷みたいだった・・・
味はよかったけど、なかなか溶けないので食べるのが
ちょっと大変だった。
楽しかった観光もコレでおしまい。
バスは空港へ向かった。
CI222で羽田へ。
外は真っ暗。
クルマで帰宅。
長いようで短い旅だった。
・・・と、思う。
旅の記録は感動や記憶が鮮明なうちに文字にしないと
すぐに忘れてしまう。
旅行中に書いたメモは残っているけれど、
どういう気持ちで書いたのかは、
あっさり忘れてしまう。
楽しかった、また行きたいという気持ちだけ残れば
いいのかもしれないけれど。
2016年
11月
28日
20160723
8時出発。
太魯閣渓谷観光。
以下、ガイドさんのお話。
台湾はかなりの地震国。
震度4~5は普通にあるので、
震度5以下は「地球のひっくり返し」と言ってるらしい。
地球の中には牛かいて、大地を支えているが、
たまに背中が痒くなると、
ひっくり返って背中を地面にあてて痒みを解消する。
その時に地震が起きるという話による。
太魯閣は少数民族の名前。
台湾の東は少数民族が多い。
台湾は東西で全然違う。
面積は九州より小さいが、人口は2300万人で、九州の倍以上。
国土の約半分が山。
東部はほとんどが山。
3000メートルを超える山が268ある。
少数民族は16族あり、55万人。
国民全体の約2%。
日月潭の近くの少数民族は一番数が少ない。
太魯閣は、昔は、観光地ではなかった。
国民党と共産党との内戦で負けたので、蒋介石は台湾に来たが、
長くいるつもりはなく、3年以内に戻るつもりだった。
しかし、なかなか帰れない。
台湾に連れてきた軍隊も歳をとっていく。
当時は総人口800万人。
そこに50万人の軍隊。
ずっと戦闘をしていたため、他の技術を持っていない。
だから、一般社会に入れるのは難しい。
ムリに社会に溶け込ませようとすると混乱する可能性がある。
そこで蒋介石の息子の蒋経国は、
東西横貫道路の工事を軍隊にやらせることにした。
(この道は現在はほとんど使われていない)
太魯閣渓谷は東西横貫道路の入り口。
この工事では212名の犠牲者が出た。
ガイドさんの説明もJTBのサイトでもこの数だが、
現地に設置してある説明板の数字は225だった。
中国語の説明がちゃんと理解できたわけではないので、
255は違う意味の数字なのかもしれない。
軍隊は中国から連れてきているので、家族は台湾にいない。
工事でなくなった方々は、国が祀る必要があり、長春祠が作られた。
太魯閣渓谷では大理石が産出する。
台湾の大理石は世界第二位。
大理石はセメントの材料になる。
大きなセメント工場が花蓮の北には何カ所かある。
台湾の建物の上には、たいてい貯水タンクがある。
春と夏には雨季があるが、冬はほとんど雨が降らない。
昔はダムが少なかったので、水不足になりやすかった。
清の時代から貯水の習慣がある。
タンクの水は、2,3日は持つ。
計画停水のようなものがあるので、建物の貯水タンクは必須とのこと。
水道水は、飲めると言われているし、
政治家も水道水を飲むパフォーマンスをしてみせるが、
台湾人は、基本的に水道水は沸かして飲む。
台湾の文化は、もともとは漢民族ではない。
文化はオランダ人から始まる。
東の少数民族には、キリスト教徒が多い。
だから、「西のお寺・東の教会」という表現があるらしい。
少数民族では、オトナになった印として顔に刺青を入れる。
オトナになったとするのは、年齢ではなく、能力で判断される。
男性は山の中で、自力で何か食料を手に入れられること。
女性は布を自力で織り上げられること。
いつ発生したのかよくわからなかったが、
落石事故があったそうで、
長春祠までは行けなかった。
ちょうどこの旅行時に、台湾ではバスの火災事故があった。
ガイドさんは、
「商売の為、安く作ったからかもしれない。一瞬で燃えたから」
と話していた。
太魯閣の近くには日本時代のダムがあり、
このダムを作るための道が既にできていた。
この道を伸ばして東西横貫道路は作られた。
「パッテンライ~八田來了」というアニメをバスのテレビで見た。
八田與一技師の台湾での活動を描いた物語。
日本では、八田技師の名前はあまり知られていない気がするが、
台湾では小学校で彼のことを教わるらしい。
高雄から北へ1時間で台南。
嘉義は最大の平地だったが、水がなかったため、
農作物はできなかった。
八田技師は、台南と嘉義の平地がもったいないと考えて、
ダムの建設を当時の総統府に提案した。
ダムが完成すると、台湾バナナやマンゴーなどが収穫できるようになった。
台湾バナナは浜田さんという日本人が品種改良したもの。
それまでの台湾バナナは、フィリピンバナナと変わらなかった。
こういうことがあったので、
東北大地震の際には台湾は多額の支援をした。
日本時代の恩返しの気持ちがあったとガイドさんは言っていた。
続いて、本日の予定の説明。
昼食は駅弁。
本日高雄へ向かう列車は、鈍行なので、沢山の駅に停まるとのこと。
台湾は週休二日制。
会社員の中には、金曜日を半休にして小旅行する人も多い。
土曜は出かける人がさらに多くなるので、
指定席は取ってあるが、電車が混むのでは?というお話だった。
ガイドさんが台湾のヒトだからかもしれないが、
中華料理の説明もなかなか興味深かった。
中華料理について、世界では、香港を一番という人が多いが、
日本人に限っては、台湾の味の方がいいという人が多いんだとか。
日本時代の影響で、日本人が好む味の中華になっているのかもしれない、と
いうのは、ガイドさんのお考え。
ガイドさんは、台湾のコンビニの話もしてくれた。
一万店近くあるらしい。
一番多いのが、セブンイレブンで、次がファミマ、
その次が、ローカルコンビニ。
バスを降りて大理石工場見学。
おそらくそれなりの役職をお持ちなのではと思われる雰囲気の
スーツ姿の男性が、ハンドマイクを持って日本語で案内してくださった。
この工場は、1963年創業だという。
工場の敷地の広さは80ヘクタール。
何もないところにどーんと建てたか、
最初は細々やってて、成功してどんどん大きくなっていったかどっちかだろう。
工場併設のお土産ショップがすごかった
大勢の店員さんが待ち構えていてくれたけど、
買えそうなものはほとんどなく・・・
息子は友達のお土産にしたいと、
ヒスイのついたキーホルダーみたいなものを欲しがった。
お手ごろ価格だったのでご希望通り二つ買ってあげたが、
そのうちひとつは女子へのプレゼント。
かなり渋いデザインだけど、喜んでもらえるといいねぇ。
一通り観光が終わったところでバスを降り、
ガイドさんを先頭に駅に向かってぞろぞろ歩く。
高雄まで約5時間32分の列車の旅。
指定席はいちばん後方の車両だった。
通路に立つヒトも、通路を横切るヒトもいなかった。
乗車してすぐにガイドさんが手配したお弁当が配られた。
見た目は素朴だったけど、味はとてもよかった。
夫は・・・なんと、駅弁を二個食べた!
配られたお弁当をぺろりと平らげた後、
池上という駅の次の駅で「関山弁當」を買って
こちらもぺろりと平らげた。
関山弁當は、今回の旅行の食事の中でも、
トップレベルの美味しさだったらしい。
長い長い電車の旅を終えると、
高雄市内観光。
台湾の四大港町は東西南北にあり、高雄はその一つ。
(花蓮、高雄、台中、基隆)
用意されたバスに乗り込んで、「蓮池潭」へ。
潭とは「池より大きく、湖より小さいもの」という説明があった。
蓮池潭は、名前の通り、昔は蓮の花がたくさん咲いていた。
2009年にスポーツイベントが開催され、その際、街全体をキレイにすることになり、
蓮池潭の池の水も全部出して掃除した。
その結果、昔のようには蓮の花が咲かなくなってしまったという。
最近になって少しずつまた咲くようになってきたそうだ。
蓮池潭には中国らしいハデハデの建物(?)がある。
虎っぽいのと龍っぽいのがセットになってたっている。
その手前にはくねくねした橋のような道が続いている。
このクネクネの角で悪いものが落ちるんだとか。
(悪魔とか魔物とか? まっすぐしか進めないらしい)
二つの塔のうち、龍の口から入って、虎の口から出てくるのがお約束。
悪霊を取ってくれるんだとか。
などという説明を受けて期待が高まっていたのだが、なんと!
既に入り口は閉ざされていた・・・ガッカリ!
移動中、檳榔の木に興味を持った人がいたので、
ガイドさんが少しだけ説明してくれた。
台湾の冬の寒さは3週間程度なので、
基本的には暖房器具は入れずに我慢するのが普通らしい。
しかし、台湾は湿度が高いため、
寒さは骨身にしみるものになる。
こういうときに檳榔をかじると暖かく感じられるという。
(兵役のときに檳榔の効果を知る人が多いとか)
檳榔の長期摂取は癌のモトになるといわれていて、
政府は摂取をやめるように伝えているが、
檳榔の栽培は立派な産業になっており、利権が絡んでいるため
なくなることはなさそう、とのことだった。
この日の宿泊は、國賓大飯店。
1995年か96年に出張で泊まったホテルなのだが、
到着したときが夜だったせいか、真っ暗という印象しか残っていない。
このホテルの売店でクマのハンガーフックを買ってきてくださいと
部長に頼まれたんだっけ。
(部長が出張で言ったときに、お嬢さんへのお土産に一つだけ買ったらしいが、
もう一つ欲しいといわれたらしい・・・笑)
ホテルの横には「愛河」という河が流れている。
ここは一昔前は悪臭を放つドブ川だった。
周囲は匂いがキツいので、人が住む環境ではないといわれていた。
よほど困窮した人でない限り、誰も住間ない場所だった。
高雄市の市長は長年国民党の人だったが、
選挙で民進党が勝ち、市長が変わった。
その後6年間で川も変わった。
水をきれいにし、川岸を公園のように整備した。
その結果、愛河の周辺は高級住宅地になっていったそうだ。
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