アーカイブ 2015年7月

2015年 7月 31日

2015 お片付け その1

カテゴリー 生活一般



20150725 

今更ながらではあるが、図書館で、「こんまり」こと近藤麻理恵さんの
『人生がときめく片づけの魔法 (2010/12/27)』を見つけたので
借りてみた。


捨てるものを探すのではなく、自分が持ち続けたいものを選ぶという考え方、
<場所別>ではなく、<モノ別/持ち主別(家族がいる場合)>で
片付けるという考え方が、私にとっては新鮮だった。


衣類、本、小物などのハードルの低いものから初めて、
思い出の品は最後に着手するという、難易度別アプローチも
参考になった。
写真や手紙類などは、そう簡単に整理できるとは思えないし。


不用品の処分については、
<卒業>とか<門出を見送る>みたいなとらえ方をしているのは、
とてもいいなぁと思った。
なので、こんまり先生は、片付け指南のためにお客さまの家に伺う時には
ワンピース+ジャケットといったきちんとした服装にしているそうだ。

モノに対して敬意を払うというのは、
昔から日本に根付いていることだと思う。

針供養や箸供養、人形供養なんていうのもあるし、
一流といわれる職人やスポーツ選手、音楽家などの
何かしらのツールを使う人たちは、道具や楽器を
ものすごく大切にする。(これは日本に限ったことではないけど)


使わないものは卒業させて、
使うものに対して、しっかりと向き合う。

そうすることで、好きなもの、お気に入りのものに囲まれた暮らしが
実現するのだろう。

これが、こんまり先生のおっしゃる「ときめくかどうか?」で
とにかく多すぎる持ち物を篩にかけるところから
スタートする必要があると思った。



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20150726

まずは衣類から着手かなと思ったが、全部広げるのはムリ・・・
衣類を収納してある部屋は、現在、夫の仕事部屋になっているので。


自分の家にあるすべての衣類を床に広げて、
一点一点手に取ってみる必要があるらしいが、
とりあえずは露払い(?)として、オフシーズンの服で、
掘り出さなくても外に出せるものを何着か並べてみた。


ときめくかどうか以前に、数年間袖を通していないものがあり、
「コレ着たい?」と自分に問う前に「もう無理」という答えが出てきた。

そのうち着るだろうと思っていたのだろうが、
やっぱり手にとって、しっかり見てみないとダメなんだなぁ。


中型レジ袋×3が旅立った。


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20150727

衣類は時間がないとムリっぽいので、この日はまずは医薬品関連。

こんまり先生の本には「モノ別に一カ所に収納」というような
ことが書かれていたが、「絶対にそうすべき!」と痛感した。


電話台の下段に救急箱っぽいものを用意して、
「いま使うもの」を入れていて、洗面所の戸棚に「ストック」を置いていた。
しかし、ストックは未開封のまま消費期限切れ。
期限が切れてから2年くらい経過しているものも・・・汗


小さい頃は熱を出しまくっていた息子は、
小学校3年くらいから、無遅刻無欠席更新中。
多少具合が悪いことがあっても、薬がキライなので、
「寝て直す」方針を貫いている。
クルマに酔うこともないので、酔い止めも不要。
なので、子ども用の薬は基本的にはほとんど必要ない。


オトナ用の薬にしても、夫は薬を飲まないし、
私もよっぽど具合が悪くない限りは、
市販の薬は飲まない。

立てて収納するタイプのA4サイズくらいの救急箱(?)を用意していたけど、
これは全く必要ないことが判明した。


爪切り、体温計、耳かき、絆創膏類、オロナイン、整腸剤、頭痛薬が
あれば十分だと思った。

風邪薬は「どうしても!」のときには飲むけれど、
量が少ないのを買って、短期間で飲みきって治すほうがいいし。


先日、数年間使っていない、カッターの替刃の容器を開けようとして、
右手の小指と手首の間をざっくり切ってしまったが、
ティッシュとキズパワーパットで、なんとかなった。
傷痕も残らなかったし。


ということで、息子のピアノの発表会の参加記念の
焼き菓子の箱を救急箱として流用することにした。
(ピアノの鍵盤のモチーフでなかなか可愛い)
電話台周辺がかなりすっきりした。



続いて本棚の露払い。

「本棚の本は全部出すべし」なのだが、
これも平日ではムリなので・・・

「いつかやろうと思っている勉強本は手放していい。
 本気で勉強したくなったら、その時に必要な本を買えばいい」
というようなことが書かれていたので、早速実践。

「せっかく買ったんだから、やらなきゃ」と思っていたので、
勉強本は、本棚の目につきやすい場所に入れていた。
だから、見るたびに「やらなきゃ・・・」という言葉が浮かんでいたのだが、
これらがなくなったら、すっごくスッキリ!
もしかしたら、背表紙の文字から、プレッシャーを感じていたのかも。


勉強本を手放した後は、
買っても積ん読状態になっていた本を手に取った。

本の片付けのときには中身を読んではいけないと書いてあったので、
手に持った時の感覚で、残すか手放すかを選んだ。
身体の反応って結構当たってるかも。


中型レジ袋サイズの本の束×2と、
中型レジ袋×1が旅立った。

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20150728


この日は時間がなくて小物類。

まずは昨日の続きで、電話台の中段に入れてある
「なんちゃって文具箱」から。
(お中元の野菜ジュースの小型缶が入れてあった箱を使っていた)

中身を全部床に出してみると・・・
文具箱といいつつ、携帯の充電器や、
エネループ、エネループ用充電器、
USBケーブル、ペンライト、謎のねじ・部品などなど、
雑多なものが入れてある。

携帯の充電器が複数あったので、確認したところ、
現在使っていない機種の充電器まで入れっぱなしになっていた。

「文具箱」なので、そぐわないものは、別の場所に収納することにした。
謎の品々は思い切って処分した。

その結果、電話台の中段に置くべき品々を入れる箱は、
ヨックモックの「ドゥーブル ショコラオレ 22枚入り」の四角い缶箱で
OKになった。



この作業が思ったより短時間で済んだので、
気を良くして、自分専用の小物に挑戦。

別室の低い棚にしまってある小物入れの箱や、
組み立て式の薄い引出しの中身を床に広げて確認。

いったん床に出すというプロセスは、ホントに重要だなぁ。

「こんなものがあったのか!」を起こすためには、
やっぱり全部出さないとダメだと思う。


カード類、外国のお金、スタンプ、ハンコ、
景品としてもらったカードケース(中にカードがぎっしり)やお財布、
なにかのオマケのノートカバー、ブックカバー・・・

カードケースの中にはとっくに期限が切れているカードや、
5年以上行っていないお店のポイントカード、
すでに撤退した店舗の会員カードなどが後生大事に入れてあった。


昭和の終わり頃に祖母が香港で作ってくれた翡翠の印鑑は、
息子が3~4カ月頃に履いていた靴下に入れてある。
こんなに小さかったのか・・・イスの足も入らない!

今年の夏が終わるころには、息子の方が背が高くなるかも。
最近は、植物みたいにむくむく大きくなっているからなぁ。


もうちょっとやりたかったけど時間切れ。
中型レジ袋×1が旅立った。


引き続き、お片付けしていこう。






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2015年 7月 16日

ピアノ発表会2015




灼熱の太陽が照りつける土曜日に
息子のピアノの発表会があった。


毎回、気を揉むのは舞台衣装。


女の子は本人がやる気満々だから、
レンタルしてでもドレスを着せる甲斐があるけれど、
男の子は、本人がどうでもいいと思ってるから、
レンタルする気も起らない。


かといって、普段着というわけにもいかず・・・
今年は救いの女神が現れて、
彼女の息子が数年前に使った<男の子発表会セット>を
譲ってくださった!
白シャツ、ベスト、スラックス、ネクタイ、皮靴・・・なんてありがたい!!


靴は去年の発表会の時に買ったものが
まだ履けると思っていた。


先端に古い靴下を切って丸めたものを突っ込んだ状態で履くと、
どうにか脱げなくなるという状態だったので。


しかし・・・!


発表会の数日前に履かせようとしたら
「はいらない・・むり」
という。


植物並にむくむく大きくなっているらしい。


いただいた皮靴は24.0だったので、大きいかなと思ったが
「これ、ちょうどいい」
という。


特に詰め物もいらないらしい。


発表会セットをいただいた日に着せてみて問題なかったが、
念のため、前日にもう一度着せてみた。


ちょうどピッタリ!・・・ということは来年は着られないということだ。
でも、来年は中学生だから、制服を着せればいいや。


今年の発表会の会場も、
例年通り、バブルの気配が濃厚に漂う音楽ホール。


息子の登場前は緊張MAXになるのだが、
本人はスポットライトを浴びてステージに立つのが快感らしい。



息子は一カ所だけ音を外した。
その瞬間、全身から汗が噴き出した。
しかし、当人は落ち着いたもので、平然と最後まで弾き切った。
幼稚園のお遊戯会から始まって、
それなりに広い会場の舞台に立つ経験をしてきたからだろうか。
あの度胸には恐れ入る。


毎年思うことだが、
ド素人の私がほんの数小節を聞いただけで、
華がある音というか、音符がキラキラしている演奏は
すぐにわかるのはどうしてなんだろう?


鍵盤をたたいているのと、
ピアノを奏でているのの違いなのか。


本当にハッキリわかる。


曲の難易度にかかわらず、というか、むしろシンプルな旋律の方が
音の華やかさとか煌きが際立つ。


でも、現時点では音の輝きが感じられなくても、
将来どうなるかはわからない。


素人は、<今の状態>しかわからないけれど、
見る人が見れば、まだ芽吹いていない才能に
気づくかもしれない。


その昔、富山県のヒスイ海岸で翡翠を探したことがある。
いかにもな緑色の小さなカケラが翡翠である確率はもちろんあるけれど、
一見、灰色っぽいタダの石に見えるものが見事な翡翠だったりする。
宿の床の間に飾られていた明るい灰色の石は翡翠だった。
どうしてこれが翡翠だとわかったのか不思議だった。
地元の人ならすぐにわかるらしいが。


これと同じように、まだ音に輝きが生まれていなくても
<内なるピアニスト>がゆっくりと目覚めはじめている状態の子は
ベテランの先生から見ればわかるのかもしれない。


これも毎年思うことなのだが、
ピアノを弾いているときと、普通のときでは
子どもたちは別人のように印象が変わる。


特に高校生の女の子は、ピアノの演奏中は
ものすごく大人っぽくて、とても10代には見えない。

高校生くらいになると「曲の解釈」も入ってくるらしい。
楽譜上では、数珠つなぎのように記されている和音を
何小節も連続して間違えずに弾けるだけで驚いてしまう
フツーのおばさんには理解不能な世界だ。


知力・体力ともMAXへと向かっている若い世代は
本当にすごいなぁと思う。


自分にもそういう時期があったはずなのだが、
その真只中にいるときには、気づけないのだろう。
上昇気流に乗っている状態が当たり前なのだから。


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2015年 7月 14日

一気読み

カテゴリー 生活一般,読書




久し振りに小説を立て続けに読んだ。
(映像化されているものは、一つも見たことがない)


しゃべれどもしゃべれども(佐藤多佳子著)

舟を編む(三浦しをん著)

しゃぼん玉(乃南アサ著)

<芭子&綾香シリーズ>(乃南アサ著)
・いつか陽のあたる場所で
・すれ違う背中を
・いちばん長い夜に



先が気になって、どの本も「一気読み」。
父や姉が「すごく面白い」と言って貸してくれただけあって、
話の展開に引き込まれてぐいぐい読み進めてしまい、
途中で本を閉じるなんて無理だった。


ここ数年間小説を避けていた理由を思い出した。

「面白いと一気読みしちゃうから」



文字通り、何もかも放り出して本に没頭してしまう。
当然、その間にやらなければならないことはそのまま手つかず。
あとで挽回するのが、とっても大変だったのだ。
だから、「読まなければいい」という判断になったのだろう。


今でも、すべてを投げうって(?)
本の世界に入り込んでしまうと、
現実世界は止まってしまう。


しかし、最近は、
息子もそれなりに「家事戦力」になってきたし、
(文句は言うけど)
以前ほどキリキリしなくなってきたから、
挽回するのは多少は楽になったかもしれない。



借りた本というのは、一気読みしやすい。
返さなければいけない本は、
なるべく早く読もうという気になるし、
貸してくれた人は「面白いから読んでみて!」
という理由で貸すことが多いので、
ストーリーがとても面白くて、どんどん読み進めてしまう。


しかし自腹を切って買ったハードカバーだったりすると、
内容がどんなに面白かったとしても、
1時間足らずで一気読みした場合は、
「もったいないことをした」という気分になる。



読む本はいっぱいあるから、
滅多に再読することはないけれど、
同じ本を何度も読むことも大事だと思う。


とはいっても、若いころ感動して読んだ本は、
あまり再読したくないような気持ちもある。


純粋な感動を壊したくないし、
<あの頃の自分>に対して、
「現実は違うよ」なんて言いたくないし。


一気読みした小説の中には、「恋」のモチーフがあった。
恋は恋のままのほうがいいなぁと思う。
恋の予感は、予感のままがいいような気がする。


昔話の結末は、結婚という形をとることによって
<恋の成就>とするパターンが多い。
> おうじさまとおひめさまはけっこんし、
> すえながくしあわせにくらしました。
> めでたしめでたし。


めでたしめでたしを否定するわけじゃないけど、
結婚したら家族になるし、
毎日の暮らしの中には、甘さだけではなく、
酸っぱさもしょっぱさも辛さも苦味もある。


そういう状態というのは、なってみないとわからない。
「彼」がおとーさんになるというのも、
実際にそうなってみないと、どういうことかわからない。



古いアルバムの中には「あの頃の彼」がいる。
間違いなくこの人と結婚したはずなのに、
現在、同じ食卓でご飯食べているのは、
同一人物であっても、どうみても「おとーさん」。


男性側からの視点も、「可愛い彼女」と結婚したはずなのに、
いつの間にか一緒にいるのは、
「史上最強のおかーさん」になっているんじゃないかと。


相手に対して「話が違う」とお互いに思っていても、
<チーム・家族>になってしまうと
「まあ、これでいいんだろう」になっていく。


・・・という現実はさておき、
恋が恋のままの状態で永久保存される小説の世界に
もう少し浸っていたいものだ。



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