アーカイブ 「かんがえごと」

2015年 3月 18日

不思議なこと

カテゴリー かんがえごと






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<不思議な話>というのは、文字にするのも
他の人に話すのも、なんだか躊躇してしまう。
特に自分が関わっている内容については。



スピリチュアルな能力を持っている人は
幼ない頃から不思議なものが見えたり、
不思議な声が聞こえたりするらしいが、
私にはそういうことは一切なかった。


だから、不思議な経験をしても、
自分でも信じられないし、
何かの錯覚ではないのかと思ってしまう。




スピリチュアル系のことは嫌いじゃないし
むしろ好きな部類であるが、
スポーツに「実践系」と「観戦系」があるように、
スピリチュアルには、
「当事者系」と「第三者系」があるような気がする。
もちろん私は後者。





201503ashinari002





バイオリズムの曲線のごとく、
スピリチュアル系のことに興味津々になる時期と
それが薄れる時期がある。


興味津々の時期に、知人の紹介で
とっても不思議なヒーラーさんに出会った。
駅とか、コンビニとか、銀行とか
現実的・具体的な場所にこの人が立っていたら、
なんだかヘンな感じがすると思う。
それくらい不思議な印象が強かった。



このヒーラーさんのヒーリングを定期的に受けていた時期がある。
(精神的・肉体的に疲弊している時期と
 スピリチュアルな方向に心の重心が偏る時期とは
 重なっているような気がする)



ヒーリングといっても、向かい合って座っているだけなのだが、
(ヒーラーさんはあれこれ儀式をやるが、当方は目を閉じて座るだけ)
終わると、とってもさっぱりするので
「今月のヒーリング・デイ」のお知らせがあると
毎回申し込んでいた。




ある時期、肩こりが超絶にひどかった。
整体院では「ほぐし甲斐がある」と言われるレベル。
コリと重苦しさがかなり強く感じられた時期に
ちょうどヒーリング・デイがあった。


ヒーラーさんは私が座るとすぐに
「なんだかものすごいのがついていますね」
と言った。




え??
ついてる・・・ツイテル・・・憑いてるってこと???




「それで・・・重くないですか?」

「はあ、いつもより少し重苦しいっていうか・・・」

ヒーラーさんは焦点が合っていないような不思議な眼をして
「このへんじゃ見ないタイプですねぇ」
と、きっぱり言った。




ええええ??
憑いてるものが見えてる・・・????



このヒーラーさんの持論(?)は、
『普通に生きていれば、何かしら汚れたり憑いたりする。
 だから定期的なお掃除が必要』
というものだった。


お風呂に入って身体を洗わないと汚れるし、
部屋を掃除しなかったら埃が溜まる一方・・・
といったフツーの感覚だと思う。
・・・どういう理由で汚れるのかは別として。





この日もいつも通りにヒーリングが始まり、
私は目を閉じていた。


すると、突然、何かがズルッと外れるというか、
ズボッと抜けるような感じがした。


首とか肩にかけていた重い荷物を
誰かにさっと取られたような、
完全に受け身な感覚だった。


この<ズルッ><ズボッ>には、ものすごく驚いた。


「憑いてたの、取れましたね」
ヒーラーさんはそう言って笑った。




<見えない世界は、本当にある!!>と確信した。


しかし、時間が経つにつれて、
「見えない世界は、ある場所にはある」
「見えない世界は、アクセスできる人にとっては存在する」
という考えに変わっていってしまったが・・・



やっぱり、
  『肩が凝って重くて仕方なかったけど、
   これは、このへんにはいない「憑きモノ」のせいで、
   不思議なヒーラーさんが取ってくれたの。
   取れるとき、ズルッていう生々しい感覚があったよ。
   「憑きモノ」ってホントに存在するんだね』
なんて、家族にさえ言えない。
家族だからこそ言えないという部分もあるけど。



親切な友人だったら「へぇー そうなんだ」と
その場では相槌を打ってくれるかもしれない。
でも、後になって、「・・・何かあったんだろうか??」と
心配になるかもしれない。






それから約半年後くらいだったか、
ヒーラーさんからのお知らせメールが来なくなり、
携帯サイトはリニューアルっぽいモードのまま更新されず、
この人に関するネットの情報も潮が引くように消えてしまった。



なんとなくだけど、海外に行ってしまったような気がしている。
「見えない世界」への入り口が、そこかしこに開いているような国へ
移住してしまったような感じがする。




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ここ数カ月にわたって、日常生活には支障はない程度だが、
じわじわした痛み、突発的なピキッとした痛みが続いていた。



ネットでいろいろ調べて、
症状をつきとめた気になっていた。



鍼を打ってもらうと痛みは軽減するが、
寒さのせいもあって、しばらくするとぶり返す。



いつになったら快癒するんだろうか?
普通に生活できるとはいえ、
このままこの断続的な痛みと付き合っていくことになるのか??




そんなある日、開封せずに削除することも珍しくないくらいに
真面目に読んでいないメルマガを
なんとなく開封して目を通したら、
あるお医者さんのことが紹介されていた。


この先生に興味を持ったので、
病院をネットで調べてみたら、自宅からはそれほど遠くなかった。


診療予約ができるそうなので、電話をかけてみた。
受付の女性は、とても親切に対応してくれた。


数日後、病院から電話がかかってきた。
私が予約した日は、申し訳ないが診療ができなくなったので、
別の日にしてもらえないかということだった。



縁がなかったのかなと思って
キャンセル扱いにしてもらい、
またこちらから連絡するということで
電話を切った。



その後はなんだか落ち着かなくて、
やっぱり行くべきではないかと思い始め、
手帳を調べて候補の日をいくつか選び、
病院に電話した。


一か月先になってしまったが、予約は取れた。
結果としてはこの日付になってよかった気がする。



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予約の日、診察室に行くと、
先生は、白衣ではなく、
検査技師のような雰囲気の服を着ていた。
色は濃紺だった。



医師というよりは、高度な技を必要とする競技の
ベテランコーチみたいな印象だった。
(体育系と専門性が混ざっている感じ)



すぐに検査とかするのかと思ったら、
カウンセリングっぽい世間話のようになり、
そのうち、<ふわふわしてないスピリチュアル>の方向へ。


すごくびっくりした。
西洋医学一辺倒ではないことは事前にわかっていたけれど、
精神世界っぽい話を大きな病院で聞くことになるとは。



しかも、知っていても、ちょっと口にするのはためらうような、
バリバリ・スピリチュアル(?!)とでも言えそうな内容まで・・・
(単に私がそう思っているだけで、先生にとっては、
 診察の一環としての説明に過ぎないんだろうけど)




医学的な検査をして、
何か病名がつけられて、
必要と思われる薬が処方されて、
日常的に行うといい体操とかを教えてもらえると思っていたので、
かなり拍子抜けした。
来たことを後悔し始めた。


でも、先生の話を聞いているうちに、やっぱり来てよかったと思った。
私が陥っている状況をズバリ指摘されたときは、
さすがにムッとしたけど、本当のことだったし、
自覚していたことだから反論できなかった。
その昔、「人間は本当のことを言われると怒る」と、
マンガか何かで読んだけれど、まさにその通りだった。


一通り話が終わって、部屋の隅の硬いベッドに寝るように言われた。
仰向けに寝てくださいと言われて、横になると、
先生は簡単な検査をした。
「問題なさそうですね。ではうつ伏せになってください」
私がうつぶせになると、
先生は背中の下の方というか、腰の上の方に両手をあてた。



レイキみたいな暖かいものがじんわりと感じられた。
(実際にレイキだったかどうかはわからない)



その間、家族のこととか、仕事のこととか、日常的な話をした。
終わると妙にすっきりしていた。


じわじわした痛みが完全に消失したわけではないが、
「もう大丈夫」という感覚があった。



具合が悪くて寝込んでしまったとき、
昏々と眠り続けているうちに、
やがて訪れる<あの感覚>と同じものだと思った。
これがないと、熱が下がっても身体に力が入らないが、
これがあると、多少熱があったとしても、
回復しつつあるという感じがしてくる。



「もう大丈夫」と感じたのは、
先生のヒーリングの効果だったのか、
自分の意識が変わったからか、
それとも痛みが引き始めるタイミングにちょうど差し掛かっていたのか。



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重要人物が顧客になっているような、
パワーのあるヒーラーは、
ヒーリングを行った後、クライアントを医者に行かせて、
レントゲンなどの検査を受けさせるそうだ。
そうすることで、ヒーリングの効果が本当に確認できるらしい。
すごく不思議なことではあるけれど、そういう現実があるのなら、
先生のヒーリングの効果だという可能性は高い。




先生のお話を伺って、痛みに対する意識がまるっきり
変わってしまったことも、大きな意味を持つかもしれない。
「意識が現実を創造する」という、しょっちゅう耳目にするものの、
でも、心のどこかで疑っていた言葉は、
どうも本当らしいという気がしてくる。



まだ痛みがぶり返すことはあるけれど、
病院に行く前に比べたら明らかにラクになった。



ふと、10年近く前に読んだ『<からだ>の声をききなさい』を思い出した。
著者のリズ・ブルボー氏の本は、むさぼるように読んだけれど、
『私は神!』を読んだあとは、憑きモノが落ちたように(笑)読まなくなった。
本が残っていないということは、ブックオフにでも売ってしまったのだろう。


amazonで調べたら、『<からだ>の声をききなさい』の増補改訂版が
2013年に発行されていた。


このタイトルこそまさに、現在の私にとっては
<肝に銘じるべき言葉>である。


201503ashinari006










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2014年 11月 06日

名前の力

カテゴリー かんがえごと

201411P4193190


ある方のブログを見ていたら、
“オーダーしたお香が届いた”という文章があった。


お香をオーダーできるのか・・・と思って、
ブログの文中のリンクをたどると、
お香のお店のサイトが出てきた。
メニューの中に「対面お誂え」の文字が。


<お誂え>の3文字に、ものすごく惹かれてしまった。
  誂える:自分の思いどおりに作らせる。注文して作らせる。


5年くらい前に、「世界に一つだけのコート」を手に入れたときの
楽しい記憶がよみがえってきて、ぜひやってみたい!と思った。


予約した日はあいにくの雨降り。
お店の場所は、メールでわかりやすい説明をいただいていたので
迷わずに行くことができた。


店主は「香司」の肩書を持つ、とても素敵な女性。


13歳のハローワーク 公式サイトによると・・・
> 香司(こうし)とは、香料選びから調合、仕上げまで、
> お香の制作に関する一切の責任を負う人。
> 天然香料についての専門知識と研ぎ澄まされた感性を持ち、
> 伝統の製法に基づく奥深い香りを生み出すスペシャリストである。


対面で作っていただくのは、塗香(ずこう)というもの。

実は、これまで塗香がなんたるかも知らなかったし、
「塗香入れ」なる道具が存在することさえ知らなかった。


「塗香」は、お清め(浄化)のための粉末のお香。
ごく少量を掌にとって、両手をこすり合わせるようにして塗り付ける。
「塗香入れ」は、塗香の少量の取り出しがしやすくなっている容器。
お値段はピンキリ。


塗香は、さまざまな浄化の場面で使えるもので、
写経の前に使うのもよいとのこと。
一昨年から、なんちゃっての写経を地味にやっているが
(でも、文字はキレイにならない・・涙)
来年からは、ほんのちょっと本気度があがるので、ちょうどよかった。


塗香づくりに使うのは天然香料。
半透明の白い容器に入った白檀、龍脳、丁子、桂皮などが
丸いテーブルに並べてあり、ひとつずつ匂いを嗅がせていただいた。


いかにもの仏教系から、漢方薬系・カレースパイス系と実に様々な匂いだった。
本当に個性的な香り。
これを混ぜたら、一体どうなるんだろう??と興味津津。


まず、これから作る塗香の名前を考えてくださいと言われた。
え?
名前??

つけた名前に向かって香りが作られていくとの説明にビックリ。


<光>という文字が頭に浮かんだので、
これを入れようと思った。


写経の前だから、いろいろ整えてからやりたいと考えた。
そこで<光整>になったのだが、
これをどう読むのか、自分でもわからない。
(しいていえば、コーセーになるんだろうけど、
 読み方はあまり気にしなくてもいいみたいだった)


調製の途中で、香りを確認させていただいたが、
なんとなくだけど、<収束していく感じ>が
わかるような気がして面白かった。


あんなに個性的で、
自己主張の激しい香りが含まれているにもかかわらず、
調合すると、ひとつのまとまった香りになるのも不思議だった。


塗香を作っていく間のおしゃべりも楽しかった。

店主が作るお香は「細長い香り」と言われることがあるそうだ。
一緒に学んだ仲間の中には「丸い香り」を作る人がいて、
本当にそんな感じの香りでしたと笑っていた。


香りは目に見えないし、形なんてないはずなのに
細長い香り、丸い香りといった図形メタファーが
すんありあてはまるのが面白い。
「ふわりと広がる」とか「すっと立ちのぼる」といったイメージが浮かぶ。
丸みを帯びた優しい雰囲気とか、スパイシーでシャープな感じとか。


<光整>も、確かに細長い感じがする。
名前の文字もカクカクしているので(?)、
何かを区切っていくとか、
まっすぐに並べなおすとか、
直線的なイメージがあると思った。




辞書の説明だと、
名とは、他と区別するために・何かを表すためにつけた言葉・呼び名であり、
その呼び名によってある概念があらわせる言葉、となっている。


<光整>と名付けることで、ほかの塗香とは区別された存在になり、
その香りは、<光整>という言葉であらわされる、ということになるのだろう。


常用字解(白川静)には、「名」という漢字については、
以下のように書かれていた。
___________________________

 会意。夕と口をとを組み合わせた形。夕は肉の食略系。
口はサイ(これを表わす記号はテキストでは表示できない)で、
神への祈りの文である祝詞を入れる器の形。
子どもが生まれて一定期間すぎると、祖先を祭る廟(みたまや)に
祭肉を供え、祝詞をあげて子どもの成長を告げる名という儀礼を行う。
そのとき、名をつけたので、「な、なづける」の意味となる。
また名声(よい評判・ほまれ)・名望(名声と人望)のように
「ほまれ」の意味にも用いる。
子が生まれて一定の日数が過ぎて、養育の見込みが立つと、
廟に出生を報告する儀礼を行い、幼名をつける。
それを小字・字(あざな)といい、さらに一定期間がすぎると
廟に成長を告げ、命名の儀礼を行うのである。
まだ実名を呼ぶことを避けるために、名と何らかの関係のある
文字が選ばれて字がつけられ、通名として使用した。

___________________________


子どもの成長に従って、次の名前をつけるたびに
儀礼が行われていたということは、
「名」というものには、何か“特別な力”が備わっていると
考えられていたのかもしれない。



『空海の夢』という本にはこんな記述があった。

> 古代言語観念の世界においては、「お前は誰か」と問われて
> 自身の名を言ってしまうことが
> そのまま服従を意味していたという事情があった。


名前には、昔からパワーがあると考えられていたんだろうなぁ。

「名前」を重要なアイテムとして扱う物語は
いろいろあったように思う。
エジプト神話に登場するイシスの物語にも
太陽神ラーの秘密の名前を手に入れるくだりがあったし、
「千と千尋の神隠し」にも、名前が持つ力を象徴するシーンがあった。



「つけた名前に向かって香りが作られていく」

子どもの名前を付けた時のことを思い出した。
名前を付けることによって、
方向性のようなものが定まるのかもしれないな。


名前の持つ力が感じられた経験だった。












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2011年 8月 04日

古い写真

カテゴリー かんがえごと

 


 


 
2011年7月31日
祖母の一周忌の会食のため宇都宮へ。
 
 
おばあちゃんが亡くなってもう1年経つんだなぁ・・


 
 
お通夜も告別式も四十九日も非常に少人数だったけれど、
一周忌は、30人くらいいたと思う。
 
 
 
出席者は母のいとこに当たる人たちがほとんど。
 
伯父には子どもがいないので、私たち姉妹には、
母方のいとこはいない。
 
 
なので、出席者のほとんどが母の世代かそれよりちょっと上。
私たちは若い部類に入るのかもしれないが、
平成生まれの3人にはかなわない・・・(笑)
姪っ子(小5)、甥っ子(2歳)、息子(小2)。
 


 
 
第二次世界大戦中、祖母たちは上海に疎開していた。
また、終戦間際に苦労して帰国したため、
写真など思い出の品はほとんど散逸していた。
 
 
写真が全くないことを祖母は気にしていたらしく、
後年、親戚に頼んで、昔の写真を集めていた。
 
 
・・ということを、伯父も母も知らなかった。
遺品を整理していて、祖母が作ったアルバムを
発見したらしい。
 
 
アルバムは非常に古い時代から始まっていた。
 
 
伯父は、これを一周忌のときにみんなに見てもらおうと考えて
パソコンで見られるように加工した。
(ものすごーく苦労したらしい・・・笑)
 


 
会食の会場には、小さいスクリーンと、
小型のプロジェクター、パソコンが用意してあった。
 
 
開式の挨拶のあと、早速、天井の蛍光灯を消して、
写真の鑑賞会(?)が始まった。 
 
 
 
若い頃の祖母。

 
 
とても昔の人という感じがする。
 


 
祖母の写真が数枚続いたところで、
昔風の丸いメガネをかけた若い男性の写真が出てきた。
大きなボタンのついた洒落たスーツを着ている。
銀座のバーで撮った写真だという。


次の写真はこの若者が横浜で船に乗っている写真。
こちらもおしゃれな服装をしていた。
新聞記者で、麻雀・テニスが好きだったらしい。
 
 
これが、一度も会ったことがない祖父。
 
 
 
 
そして、どこかの庭で撮った結婚式の写真。
写っているのは祖父と祖母の二人。
今の私よりはるかに若いのだろう。
 
 
続いて、絵本をしっかり抱えた小さな男の子と
20代の青年の写真。
 
 
これは、伯父と祖母の弟。
徴兵前の写真らしい。
街の本屋に連れて行ってもらって、絵本を買ってもらったことを
伯父はハッキリ覚えているそうだ。
また、この写真を、わざわざ写真館で撮影したことも。
 
 
「Dおじさんは、帰ってこれないかもしれないって
 覚悟していたから、こんな写真を撮る気になったのかもしれません」
伯父は、スクリーンに映し出されたセピア色の写真を見ながら
こんな解説をした。
 
 
当時の20代とイマドキの20代では
まったく違う人種なんだろうなと思った。
 
 
Dおじさんだって、若い時代があったはずなのに、
私の中では、「飄々としたおじいさん」という
印象しかなかった。
 
 
結婚したばかりの頃、伯父の家に挨拶に行ったら、
Dおじさんが、益子焼の湯呑と急須のセットを自転車の荷台にくくりつけて
結婚祝として持ってきてくれた。
その時の印象が強くて、「20代のDおじさん」というのは
なんだかとても不思議な感じがした。
 
 

 
 
昭和17年。(1942年)
祖母たちは家族で中国へ渡った。
上海で暮らしていたが、中国へ来て2年もたたないうちに、
祖父は急性肺炎で亡くなった。
 
 
祖母は子どもを連れて朝鮮経由で帰国した。

1945年 上海・東京
http://www.m2-dream.net/?p=2314
 
 
そして8月15日を迎えた。
 
 
社会は混乱していたが、食べていくには何か仕事を
しなければならない。
 
 
祖母は知り合いの人たちと一緒に雑貨屋を始めた。
 
 
社会が落ち着いてくると、知り合いの人たちは、
それぞれもとの会社、もとの地位へ戻って行った。
 
 
祖母は「タイガー」というビアホールを始めた。
タイガーのメニューの写真があった。
なんだか、映画のセットみたいに見えた。
 
 
しばらくビアホールを続けた後、
祖母は「はいろう」という小料理屋を始めた。
腕のいい板前さんを雇うことができた。
 
 
新橋駅の西口の通りには、こぎれいな小料理屋が
ならんでいて、祖母の店はその中にあった。 
 
 
祖母は、昭和30年に調理師免許を取り
店を2階建てにした。
 
 
「はいろう」の関係者たちと一緒に調理場で撮った写真もあった。
(お店の外観の写真がなかったのは残念・・・)
 
 
私は祖母が新橋で小料理屋をやっていたということは
聞いたことがあったが、店名が「はいろう」だとは
知らなかった。
 
 
しかし、考えてみれば、祖母の家には「はいろう」と
書かれた器や鏡があったのだ。
(なんで「はいろう」なんだろう?とは思ったが・・・)
 
 
 
 
「はいろう」時代に、祖母は世田谷野沢に
念願のマイホームを建てた。
 
 
子どものころ、「野沢の家」という言葉は何度となく
耳にしていた。
 
 
家の様子がわかるような写真はなかったが、縁側の前で
祖母や母、伯父と一緒に、何人かの大人と子どもたちが
お行儀よく並んでいる写真は何枚かあった。
 
 
野沢の家には、大勢の人たちが遊びに来てくれて、
祖母はそれがとても嬉しかったそうだ。
 
 
縁側の前で撮った写真は、
こんな人たちが遊びに来てくれたという、
記念のつもりだったのだろう。
 
 
 
 
私が子どもの頃の実家の台所には、
つくりつけの戸棚や引き出しがあった。
野沢の家から持ってきたものだと母が教えてくれた。
 
 
白いペンキがきれいに塗られたもので、
今考えると、結構おしゃれだったのではないかと思う。
 

祖母は美的感覚に優れていた。 
(子どもも孫もその遺伝子を受け継いでいないのだが・・・)

 
野沢の家も彼女のこだわりが反映されたものだったのかもしれない。


 
 
野沢時代の写真のあと、いきなり写真は昭和50年代に飛ぶ。
 

今の私より年下であろう伯母と祖母の写真。
どこかの観光地で撮ったらしい。
結婚が決まった頃のものかもしれない。
(伯父が結婚したのは、私が小学校5年生の時だった) 
 
 
さらにそこから飛んで、平成に。


私の実家の食卓のテーブルで撮った写真。
祖母はちょっと派手めの赤い半纏を羽織っている。
 
 
 
息子が生まれた2003年、祖母は私の実家で暮らしていた。
(この数年前から同居していたと思う) 


出産後1か月弱、実家で暮らしたが、
祖母は息子をとてもかわいがってくれた。
 
 
今の大きさからは想像できないくらいちっちゃかった息子を、
祖母が笑顔であやしている写真は私のお気に入りだ。
 



 
その後、祖母は介護老人ホームで数年間暮らした。
しかし、病院での治療が必要な症状が出たため、そこを退去した。
 
 
伯父が医療的なケアが受けられる老人介護施設を見つけ、
そこに行こうかどうしようかという状況の時、
祖母は亡くなった。
 

 
2010年の夏だった。 
 
 
 
そして、2011年3月11日。
東日本大震災。
 
 
候補に挙がっていた施設は建物が全壊したという。
 
 
きっと、祖母はいい時期に旅に出たのだろう。
 

99歳だったから「あと1年だったのに」と感じる部分も
あったけれど・・・
 
 

母の知り合いは、祖母が99歳で亡くなったと聞いて
「まあ、なんて奥ゆかしい」
と言ったそうだ。
 
 
母は
「こういう場面で、奥ゆかしいって言えるなんてすごいわねぇ」
と、感心していた。
 
 
 
明治の女のひとは、きっととっても強くて、
とっても奥ゆかしかったのだろう。
 
 
 
 
古い写真の上映会(?)の間、
息子が食い入るようにスクリーンを見つめているのが
とても意外だった。
 
テーブルの上に、お子様メニューのハンバーグや
海老フライがすでに並べてあったのだが
いつものように「おなかすいた、早く食べたい!」
と言うこともなく、写真に見入っていた。
 
 
 
オトナになる過程で、ひいおばあちゃんの記憶は
どんどん薄れてしまうだろうけど、
ひいおばあちゃんがいて、おばあちゃんがいて、
お母さんがいるから、自分がいるんだということは、
心のどこかで覚えていてほしいなと思った。








 
 

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2011年 5月 28日

1968年 東京

カテゴリー かんがえごと

あいかわらずいろいろあってバタバタしていて
泣いたり落ち込んだりと感情的にもバタバタ(苦笑)


ブログの更新も20日ぶりだなぁ・・・
 
 
5月8日に祖母の家にお別れに行った時、
処分する本の山から、地図好きな夫は1968年(昭和43年)の
東京都の地図を貰い受けていた。
 



 


後日、実家に持っていくと、同じく地図好きな母が感心して眺めていた。
「こんなふうだったのねぇ・・・」








1968年というのは、今から43年前。終戦から23年後。

いろいろあったけど、目を引いたのは・・・(Wikipediaより)

2月26日 – 成田空港阻止三里塚闘争集会、警官隊と乱闘、戸村一作委員長重傷。
3月31日 – リンドン・ジョンソンアメリカ合衆国大統領、ベトナム戦争での北爆一部停止を発表。
4月18日 – 東京都千代田区に日本初の超高層ビルである霞が関ビル完成。高さ147メートル。
4月25日 – 東名高速道路、東京IC-厚木IC、富士IC-静岡IC、岡崎IC-小牧IC各区間が開通、
        小牧ICで名神高速道路と接続。
4月 – 西武百貨店渋谷店開店。
6月21日 – 都営地下鉄1号線(現:都営地下鉄浅草線)大門駅-泉岳寺駅間開業。
6月26日 – 小笠原諸島の日本復帰。
7月25日 – 明治製菓が日本初のスナック菓子「カール」を発売。
10月17日 – 川端康成がノーベル文学賞受賞。
12月10日 – 東京都府中市で三億円強奪事件発生。
12月24日 – アポロ8号が月を周回し、月の地平線から昇る地球の写真が撮られる。
12月27日 – 都営地下鉄三田線の志村駅 – 巣鴨駅間が開業。






(祖母の家の庭の花で作った、姪っ子作のアレンジメント)




1968年の43年前は1925年(大正14年)。

大正14年にはいろいろあったけど、こんなこともあった。
2月20日 – 丸善『理科年表』創刊
4月22日 – 治安維持法公布
11月1日 – 山手線で環状運転開始(御徒町駅開業・秋葉原駅旅客営業開始)


1925年 → 43年経過 →  1968年 →  43年経過 →  2011年 


43年前には、PCやケータイはなかったけど、
セシウムやプルトニウムもなかった。


86年前は、コンピュータも家電もなかったけれど、
「現代の日本からは消えてしまったもの」がたくさん存在していた。



今から43年後は2054年。

その時、日本はどうなっているんだろう・・・

「幸せな未来」だといいんだけど・・・








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2011年 4月 06日

ポジティブなエネルギー

カテゴリー かんがえごと

 
 
 
先月、箱根に行ったのが、もう遠い遠い昔のようだ・・・ (2011.3.6)
 

 
 
箱根ラリック美術館
http://www.lalique-museum.com/

 
この5日後に、すべてが変わってしまったんだけど。
 
 
箱根ラリック美術館の「オリエント急行」。
コートダジュール号の中。
 

 
 
ラリック社のコレクション。

 
 
なんだか本当に遠い遠い昔のようだ・・・
  
 
 
 
 
 
 
関西在住の僧職の方のお話を聞く機会があった。
 
____________________________________________________________
 
 
関西は被災していないし、節電の動きもないし、
街には人が大勢いるけど、あまり活気はないらしい。
 
 
景気がイマイチだったところへ震災があって、
物流が滞ったり、部品や原料が調達できなかったり、
自粛ムードがジワジワ浸透してモノが売れなくなったり・・・
 
あまり元気ではないとのこと。
 
 
 
外側に暗いもの・ネガティブなものがあると、
人間の内側にある、同質なものが引き出されてしまうそうだ。
 
世の中が暗いと、心が暗くなるし、
暗いニュースばかりだと、どうしてもウツウツしてしまう。
 
 
 
しかも、今回の場合は実体のない漠然とした「不安」や、
なんとなくの「不穏なムード」ではなく、
地震・津波→大規模な被害・原発の問題→計画停電・健康被害等といった、
ハッキリした対象があるだけに、リアリティがありすぎて、
どうしてもふさぎこんだ気持ちになってしまう。
 
 
ネット上には、ネガティブな情報があふれ、
「~の恐れがある」が、いとも簡単に「~になってしまった!」に変化する。
 
 
もちろん、自分の身を守ることは大切だし、
買占めにならない程度の万一の備えは必要。
 
 
でも、自分以外のことにも目を向けるべき。
 
 
自分を主に考えすぎているから、どうしても主観的になる。
外側のネガティブなものに同調している状態で
モノゴトを考えたところで、ネガティブな要素しか見つけられない。
  
 
平穏無事な社会だったら、自分を主に考えても、
外側にネガティブ要素があるわけではないし、
通常の生活が送れる基盤が整っていたから、ナントカなった。
 
 
でも、本来はそれではダメ。
自分が、自分が・・・では、どこまでいっても我欲からは抜けられない。
 
 
自分の周囲の人のことや、
自分がこれまで受けていた恩恵にも目を向けなければいけない。
 
 
日本では、電気が使えるのも、きれいな水が供給されるのも
当たり前になっていて、ありがたみを感じることがなくなってきていた。
(蛇口をひねって出てきた水をそのまま飲める国は少ないそうだ)
 
本当は、電気も水も、大勢の人たちが支えてくださるお陰で
便利に使える状態になっていて、これは実に「有り難い」ことなのだ。 
(そういう状態で「有る」ことが「難い」=そういう状態にするのは難しい) 
 
 
 

 
 
 
 
今、外側にあふれているネガティブなエネルギーから自分を守るための
簡単な方法は「ありがたい」を感じること。
 
 
リアルに「ありがたい」「ありがたかったなぁ」を感じたり、
「ありがとう」を見つける努力をする。
(できれば、ノートに書きだしていく)
 
 
とにかく「ありがたい」と思うことで心を満たしていく。
 
 
これにより、自分の中にポジティブなエネルギーが
生まれてくるそうだ。
 
 
 
____________________________________________________________
 
 
 
こういうことをやったからって、
原発がどうにかなってくれるわけではないが、
 
パソコンやテレビの前で、
東電や政府の対応を猛烈に批判したところで、
すぐすぐ事態が好転するわけでもない。
  
 
でも、自分の生活や自分の未来を心配して
家に閉じこもって暗いニュースを眺めているよりは、
少しでも心をよい状態に保とうとする方が
ずっといいんじゃないかと思う。
  
 
心を前向きに明るくすることで
これ以上消費が落ち込まないように、
外食や買い物をしようとか、
チャリティーイベントに参加してみようとか、
そういう行動に結び付くなら、
結果として、良い方向へ進んでいけるのではないかと思う。
 
日本全体から見れば、微々たるものではあるけれど。
 
 
 
自分の外側・周囲にあるものと、
自分の内側にあるものが、リンクするのであれば、
楽しいもの、
嬉しくなるもの、
気持ちよいもの、
面白いもの、
美味しいもの、
美しいものに
囲まれていたいなぁと思った。
 
 
 
  

 








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2011年 1月 28日

匂いの記憶

カテゴリー かんがえごと





『記憶のカタチ(2006.03.22)』よりさらに前の記録が見つかった。
2002年に書いた文章だ。


記憶のカタチ
http://www.m2-dream.net/?p=4908



読み返してみて、やっぱり私は、
視覚的な記憶よりも、匂いや手触り等、
身体で感じた感触を重視していたことがよくわかった。


「していた」と、過去形なのは、
何がきっかけだったのかわからないが、
身体感覚がものすごく鈍くなっていたからだ。





それに気付いたのは去年の11月。


ロルフィングというボディワークを受けた。


ロルファー(ロルフィングの技術を持つ人)の女性から
「まっすぐ立って下さい」
「では、歩いて下さい」
と、言われたとおりに動いた後、
「今、どういう感じですか?」
と訊かれて完全に言葉に詰まった。



どういう感じなのかわからなかった。



手も足も感覚があるし、
それが動いているのはわかるけれど、
「どういう感じ」で動いているのか、よくわからなかった。



結構ショックだった・・・



身体の中に骨があって、関節があって、筋肉があって
それらが動いているはずなのに、
その動きが全く感じられない。
自分の身体は、泥とか粘土の人形みたいだと思った。


ロルフィングのセッションを受けているうちに
徐々に感覚が戻ってきたが、
それでもまだ意識できない部分もあるし、
ヘンな癖がついているせいで、
固まってしまっているところもある。



肉体を持って地球に存在しているのは、
五感で感じるため、
重さや痛みや気持ちよさを感じるため
というような話を聞いたような気がするが、
今日の社会は、視覚だけで済んでしまうことが
かなり多いような気がする。



もうちょっと他の感覚も使わないとなぁ・・・



___________________________________________________________



匂いの記憶
2002年3月15日



朝から雨。
昼過ぎにはすっかり上がってしまい、
朝の雨の気配はすっかり消えてしまったが。


久しぶりの雨だったので、すごく「雨の匂い」がした。
雨の匂いは昔から好き。


雨の匂いはすぐわかる。


地下鉄を降りた時に雨の匂いを感じたことがあった。
一緒にいた夫に
「雨の匂いがするから、今、雨降ってるよ」
と、言っても彼は全然信じてなかった。
…外に出たらやっぱり雨が降っていた。
(「野生のカン?」と言われてしまった…)



匂いの記憶は長く残るというけれど、
「この匂い」「あの匂い」と明確に分けて
記憶しているわけではないと思う。



記憶に残っている匂いをもう一度感じた時に、
「これはあの時の...」
と思い出すのだろう。
もちろん、これは人によって違うのだろうけど。



香りを言葉で表すなんてとてもできない。
でも、調香師だったら香りを説明できるんだろうな。
ソムリエもワインの知識と繊細な味覚だけではなく
豊富な語彙が必要らしい。
味を言葉で説明するのもかなり難しいと思う。



調香師は香水を調合するだけかと思っていたが、
パフューマとフレーバリストの二つの分野があるらしい。
パフューマは香水・化粧品関連、フレーバリストは
食品関連に使われる香料を調合するそうだ。



香水はあまりつけない。
香水売り場の匂いは苦手だ。


でも、数年前に突然「自分の香り」が欲しくなって
デパートの香水売り場に行ったことがあった。
店員さんはヒマを持て余していたのか、いろいろな
香水の説明をしてくれた。
ついでに、棚に飾ってある巨大な香水瓶の中身は
「お酢」だということも教えてくれた。
(これはホントに本当なのだろうか???)



そして、私から受ける印象を元に彼女の「イチオシ」
を選んでくれた。



それがエルメスの「カレーシュ」だった。
香りが穏やかで、抵抗なくつけられそうだったので、
薦められるまま、トワレを買った。



インターネットで見つけた香水屋さん(アグレール)
の説明によると…


********引用ここから*************


1961年にエルメスから発表された、エレガントで
知的なフレグランス。薔薇、イリス、オークモス
オレンジブロッサムなどをブレンドした香りは
時間とともに優しさが増し、特に香りが消える
直前のラストには深みがある。
石鹸のような清潔で優しいフェミニンな
イブニングフレグランスです。   


********引用ここまで*************





確かに石鹸のような優しい感じのする香りだ。
強い個性はないから、誰にでも合うような気がする。
だからこそ、店員さんはこれをすすめたのだろう。
(香水によってはつける人を選ぶからなぁ…)



「色」として好きな色と「服の色」として好きな色は違う。
「香り」も、匂い自体が好きなものと、香水など
身につけることが前提になるものでは違う。


白檀(Sandal wood)の香りは大好きだけど
これを身につけたいとは思わない。
自分の外側で感じたい香りだ。



仕事が辛くて精神的に参っていた時期に
アーユルヴェーダの先生のところへ行った。


一通り診察した後、
先生は小さな瓶が沢山入った箱を出してきた。
そのうちの一つを取り出して、蓋を開け、
私に匂いを嗅ぐように言った。


ワインビネガーと漢方薬を混ぜたような匂い。
とても耐えられなかった。
「この匂いは…ちょっと駄目です」
「じゃ、こっちは?」
別の瓶を渡された。


その瓶からは柑橘系の香りがした。
「この匂いは好きです」
「自分に必要な匂いが心地よく感じるんですよ。
あなたが、駄目だと言った匂いが
 すごく好きだと言う人もいますし、
 
 あなたが好きな匂いを
 耐えられないと言う人もいます。

 体調や気持ちの変化によって
 好きな匂いは変わるものですよ」


最近は特に悩んでいることもないし、
(図太くなって開き直りやすくなっただけか?)
平穏無事な生活だ。



精神的に辛かった時期に、
耐えられなかった匂い、
好きだと感じた匂いは
今、嗅いだらどう感じるのかな?




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カレーシュのミニチュアボトル。


数年前オークションにて購入
 ルームフレグランスっぽい使い方をしていた。
 ・・・・もう残り少ない)



アーユルヴェーダの先生のところへ行っていた時期は、
「なんちゃって海外営業」だった。
海外赴任になった先輩が担当していた得意先を引き継いで、
円形脱毛と鼻血に悩まされていた。


得意先と通関業者と工場の生産管理&品質管理の間で
サッカーボールのように蹴りまわされていたような・・・


ものすごく悲観主義で、
なんだかめちゃくちゃ暗かったような(苦笑)




この日記を書いていた時期は、
田舎の職員室のような職場に異動になっていて、
廊下を自転車が走っていても
なんとも思わなくなっていた。



当時、日記を書いていたのは「DiaryNote」

「友達だけに公開できるひみつ日記」 という機能があり、
そこに書かれていた文章には、
『記憶のカタチ』でも取り上げた、母のひきだしについての
記述があった。


2006年から更に4年遡るせいか、情報量が多い(笑)


___________________________________________________________



(2002年3月作成)



かなたさんの日記の
「秘密な香り」
「子供の頃から追い求めてる香水」
の言葉から思い出したことがあった。


母の香水のことだ。


母から香水の匂いを感じたことはなかったが、
彼女は一つだけ香水を持っていた。


北側の和室に母の箪笥があった。
めったにない「イイお洋服でのお出かけ」の時、
母は一番上の引き出しから、
ネックレスや指輪を出して身に付けていた。



一番上の引き出しには、
いいモノが入っているに違いないと確信していたので、
中が見たくて仕方なかった。
でも、「見せて」と素直に言えなかった。



母の留守を見計らって椅子を持ってきて開けてみた。
深紅や紺色の天鵞絨貼りの箱がいくつもあった。
中には真珠の首飾りや薔薇の形のイヤリングやら
キレイなものが入っていた。



(今考えるとミニチュアボトルだったのかもしれないが)
小さな香水の瓶があった。



四角くて平べったい形で金色の蓋がついていた。
蓋は固くて開けられなかったが、
鼻を近付けると、いい匂いがした。



香水のラベルには漢字が一文字。
それは「宴」という字だったと思うのだが、
当時はこの漢字を知らない筈なので、
後から創り出した記憶なのかもしれない。


Yahooで検索すると
「宴」という香水があるようなのだが、
該当するサイトをクリックすると
Not foundになってしまう。


しかし、あの香水が本当に「宴」という名前で、
今でも入手可能であったとしても、
私の記憶の匂いとは一致しないかもしれない。



母は香水をつけない人だったから、
私が嗅いだのは、
「宴」が経時変化した香りだったかもしれない。


___________________________________________________________




そうだった・・・


母が足踏みミシンを使う時に座っていた、木製の丸イスを、
タンスの前まで運んでいって、その上に立って
引き出しの中をのぞきこんでいたんだ。


指輪やブローチなども入っていたような気がする。


4年くらい前に実家は改築したけど、
あのタンスはどうしたのかな?
私が子どもの頃からあったから、
相当古いと思うんだけど。


週末に実家に行くから、確認してこよう。



別のブログに書いた記事をこちらのブログに持ってきました。


ちいさいおうち
http://www.m2-dream.net/?page_id=4928

これも大好きでたまらなかった絵本です。
この記事を書いて5年経過し、この本は更に古びてしまいましたが、
大事にとっておきたいです。



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2011年 1月 25日

記憶のカタチ

カテゴリー かんがえごと


ブログの引っ越し作業をせっせと(?)やっている。


バシッとブログ全体を削除してしまってもいいのかもしれないが、
せっかく積み上げた砂のお城を足で踏み潰すみたいで、
なんだかイヤだ(笑)


時間はかかるけど、残したいと思える記事は
地道に運んでこようと思っている。



2006年の文章を読み返したら、
考えてることはあまり変わっていないような気がした。


去年書いた文章の中にも、
なんだか似たようなことを書いた記憶があるし・・・


メルマガにも同じようなことを書いたような気がする。
もしかしたら、メルマガの文章に加筆したのかもしれないけど。



私の頭の中は、日々新しい情報が追加され、
保管期限が過ぎた記憶が次々と消されていくだけで、
『常駐している思考』はあまり変わっていないのかもしれないなぁ。






記憶のカタチ
(2006.03.22作成)
___________________________________________________


先日、姉と会った時に海の思い出話になった。


小さい頃、よく海へ連れて行ってもらった。
阿字ヶ浦へ行くことが多かった。


父が単身赴任で仙台に行った年の夏は
桂島という小さな島で過ごした。


姉の海の記憶は
  夏の日ざしを浴びて、白っぽく光る道路の向こうに
  青い海が広がっている
というもの。


もっと他にもあるのだろうが、彼女にとっては
大きな風景画のようなものらしい。



私にとって海の記憶というと、
  足の裏に感じた熱い砂やとがった貝殻の感触

  波打ち際に立っているときの、波の感触

  足の上を波が通っていき、
  引いていくときに、踵がうまっていく時の、
  自分が後ろに下がっていくような目眩に似た感覚

  昼間、ずっと海に入って遊んでいた日の夜、
  布団に入っても、まだ身体が波に浮かんでいるようなゆれる感覚

  日焼けした肩のひりひりした痛み

  内側から発熱しているようなじんじんする熱さ

  カーマインローションの匂い

  緑がかった薄茶色に濁った海水の中を流れていく
  たくさんの砂の粒…


私は、海そのものより、自分の身体で感じたものを
海の記憶としているらしい。



「海」という歌がある。<天野蝶>
 ♪うみだ うみだ ひろいな
  そらと どっちが ひろいだろ
  ざんぶりこ ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ
  ざんぶりこ ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ


 ♪うみだ うみだ きれいだな
  なみが いったり かえったり
  ざんぶりこ ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ
  ざんぶりこ ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ




この歌も話題になったのだが、
私はこの歌の1番と2番を逆に覚えていた。
と、いうより、姉が歌うまでは、1番を完全に忘れていた。


姉が歌ったときにやっと思い出したが、
「それ2番じゃないの?」
と言ったくらいだった。


確かに、私の海の記憶から考えると
 ♪なみが いったり かえったり
の方が
 ♪そらと どっちがひろいだろ
よりもずっと印象が強い。


考えて見ると、海の記憶だけでなく、私の記憶は、
ものごく細かく分解された部品の断片の集まりのような気がする。



小さい頃ずっと使っていた毛布のラベルの匂いや感触。


浴衣の帯の感触。
姉の帯はツルツル。
私の帯はふわふわ。


母のタンスのひきだしから見つけた香水の小瓶の香り。
金色の蓋がついていて、少し汚れたラベルには『宴』と
いう文字がついていた。


おもちゃのコンパクト。
キレイな蓋の模様がどうなっているのか知りたくて
分解して出てきたのは、虹色の紙とぎざぎざのついた
プラスチックの板。



「そんなこと、覚えてるの?」
昔話をすると、よく言われる言葉。



仙台土産に父が買ってきた『九重』という飲み物も
姉には全く記憶がないそうだが
私ははっきり覚えている。


コップに<ねじねじスプーン>で九重を入れて
お湯を注ぐと、あられのようなものが
浮かび上がってくる。
それがとても不思議なものに思えて
ずーっと見ていた。


レコードの演奏が終わり
針が中心に向かって
すーっと吸い込まれるように移動していって
ふわっと持ち上がり、
ゆっくりもとの場所に戻っていく動きも
飽かずに眺めていた。



こどもの頃は、こうやって一つの対象を
じーっと好きなだけ見ていられた。


今だってそれは、不可能ではないとは思うけれど、
一つの対象を見つめていても
心はふらふらとさまよいだす。
こどもの頃のように、その対象に
惹きつけられて動けなくなることはない。


どうしてだろう?
やることがいっぱいあるから?
他に考えなきゃならないことが山ほどあるから?
コレはこういうものって決めつけているから?
コレはどうしてこういう色なんだろうなんて考えないから?



自分の目の前のものに対して
最大限の注意と敬意を払うことができるのは
オトナじゃなくて、こどもなのだろう。


息子が石を見つめて動かない時、
目をまん丸にして花に見入っている時、
彼の世界を邪魔しないようにしよう。
きっと疑問符でいっぱいになって
動けなくなっているのだから。


___________________________________________________




『九重』の写真が見られるページ(お土産の販売サイトのページ)
http://www.sendaimiyage.com/item/A57-013.html



『宴』という香水の瓶は、本当に深く記憶に刻まれているようで
大学時代に所属していた文芸部の部誌にも、この香水のことを
書いた記憶がある。


香水が入っていたひきだしには、
白い手袋と白いバラのモチーフのイヤリングも入っていた。


この文章を打っていてふっと閃いたのだが、
これらの品々は、もしかしたら、
結婚式関連の何かの機会に使ったものだったのかもしれない。


白い手袋は、私が結婚式で使ったものとはだいぶ趣が違うけれど
白いバラの刺繍が施された、装飾的な印象の強いものだったし、
バラのイヤリングも、高価なものではないだろうけど
普段使いという雰囲気ではなかった。


母は香水をつけない人だし、
イヤリングをつけているところも見たことがない。


香水と手袋とイヤリング以外に、あのひきだしの中には、
他に何が入っていたのか思い出せないけれど、
母にとっては「特別なひきだし」、
「幸せな記憶につながるひきだし」だったと思う。


2006年3月と言えば、『抽斗図書館』というメルマガとブログを
始めた時期だ。


母のひきだしのイメージから
『抽斗図書館』が生まれたのかもしれない。
・・・全く記憶に残っていないだけで、
既に、どこかで書いているのかもしれないけど。




別のブログに書いた記事をこちらのブログに持ってきました。


だるまちゃんとかみなりちゃん
http://www.m2-dream.net/?page_id=4892

かみなりちゃんの未来都市は、
「1970年代における21世紀のイメージ」
だったかもしれないなぁと思いました。



だるまちゃんとうさぎちゃん
http://www.m2-dream.net/?page_id=4898

おやつの場面は、本当に楽しい♪
これだけのお菓子が一堂に会しているところを
一度は見てみたいものです。



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2011年 1月 13日

受容

カテゴリー かんがえごと





2006年からほそぼそとメルマガを続けている。



読者数は学級新聞レベル(笑)。
やめようと思ったこともあったが、解除せずに読んでくださる方々の
存在は、非常にありがたくて、嬉しくて、なんとか続けている。


年内最後のメルマガの記事は、本人的には、結構頑張って書いたつ
もりだったけれど、読み返すとかなりのアラが!!(滝汗)



配信されてしまったら、修正も訂正もできないんだけど・・・涙


この文章を書いたのは、約3週間前。
たいして時間は経っていないのだが、体調や気持ちによって、
ずいぶん感じ方が違うんだなぁと思う。



今の気持ちをベースにして加筆修正してみることにした。



_____________________________



とても素敵な文章をお書きになる、美しい方がいます。強い意志を
感じさせる理知的な瞳で世界を眺めているから、こんな文章が書け
るのかなぁ?と彼女の文章を読むたびに感じています。



彼女は、整然とした美しい世界だけではなく、安藤裕子さんの詞と
どこか重なるような、心の奥に封じ込めていた諦めや後悔、悲しい
記憶を呼び覚ます文章も書きます。読んでいて涙目になってしまう
ということは、私の思い入れが強すぎるという点もあるでしょうが、
おそらく彼女の実体験も含まれているのでしょう。



凛とした印象が強い彼女でも、痛みや怒りで心がいっぱいになって
しまったり、悔しさや歯がゆさ、もどかしい思いで眠れない夜を過
ごしたり、自分の至らなさに歯ぎしりしたりということもあったの
かもしれません。もっとも、思いっきり共感したからと言って、私
と同じ経験をしているとは限らないし、彼女は、非常に責任の重い
仕事をしている関係上、怒りや悔しさや後悔の気持ちは、私の想像
の域をはるかに越えているような気がします。






先日、「受容」についての彼女の考えを読む機会がありました。
カウンセリングなどでも「受容」は、重要視されているようで、ネ
ットで少し調べてみたところ、「相手を一切否定せず、まるごと・
ありのまま受け入れる」という説明がありました。



「受容」とは、相手に対する『敬意』だと、彼女は考えているそう
です。敬意とは尊敬する気持ちのことですが、こういう気持ちは、
持とうと思って持てるものではありません。



尊敬される人は「私を尊敬しなさい」などとは絶対言いません。
「尊敬の気持ち」というものが、心の底から自然に湧きあがってく
るものだとわかっているからなのでしょう。逆に「尊敬しなさい」
などと言う人は、自分が尊敬されないことにどこかで気づいている
のかもしれません。



「尊敬」の辞書的な意味は、「その人の人格を尊いものと認めて敬
うこと。その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人
を敬うこと」です。・・・やろうと思ってできることではないなぁ
と感じました。でも、真に相手を受容しようとしたら、相手の人格
を尊いものと心から認めて、本気で敬う気持ちを持たなければなり
ません。そうでないと、相手は自分が受容されていると実感するこ
とはないでしょう。



表面上・形式上の言葉とか、「本当は言いたくないけど、言った方
がいいって本に書いてあったから言ったんだよ」的な言葉を使って
「受容の気持ち」を表現してみたところで、発した側の「どういう
気持ち・どういう意図があったのか」は、ハッキリ伝わってしまい
ます。



こんな言葉を言われたら、それを聞いた人は「受容」を感じるどこ
ろか、「口でなら何とでも言えるよ」「どうせ本心じゃないでしょ」
「私をおだてて、何をさせようとしてるんだろう?」などという気
持ちになりかねません。コミュニケーションは、言葉のみで成り立
っているわけではないし、たいていの人は、言葉以外のものからも
情報を受け取ることができるからです。そう考えると、「受容」は
ものすごく大変なことのように思えます。私のように器の小さい人
間にとっては、神技のようにさえ感じられます。



とはいえ、尊敬の念が絶対に持てないのかというと、そういうわけ
でもなく、逆に相手を徹底的に否定することの方が、本当は難しい
はずなのですが・・・



ある人の考え方・価値観・行動様式というのは、それまでに生きて
きた時間、受けてきた教育、暮らしてきた環境など、さまざまな経
験からできあがっています。息子を見ていると、親なんかよりも、
周囲の方々から、たくさんの素晴らしいものをいただいて育ってい
るなぁと感じます。



一人の人間が存在している背景には、実に大勢の人たちが関わって
います。相手を否定するという行為は、その人が過ごしてきた時間
や関わってきた人たちをも否定することになってしまいます。


そういうことにちょっとでも想いを馳せることができれば、そう簡
単に相手を全面否定なんかできないはずなのですが、「ちょっとで
も想いを馳せる」というのができそうでできない・・・
できないからやらなくてもいいという意味ではありませんが・・・



「相手を受け入れること、興味を持つことが大切」と彼女は書いて
いました。「嫌だ・かかわりたくない」と思った瞬間、興味は失せ
てしまいますが、本当に受容しようと思ったら、ここも乗り越えて
いかなければなりません。



ある人が「<コレ>は自分にはできないと思う時は、<コレ>とは
別のことをやろうとしている」とおっしゃっていましたが、「あん
な奴に絶対に興味なんか持てない」と思っている時は、相手を遠ざ
けるという「別のこと」をやっているから、当然興味など持てない
のでしょう。



今まで「即効・お手軽路線」に惹かれる傾向が強かったのですが、
「受容」に関しては、即効・お手軽の対極にあると感じました。
前述したとおり、相手に対する尊敬の念というのは、即効・お手
軽に手に入れられるものではないし、仮にそれを手に入れたと思
えたとしても、相手が尊敬されていると感じるかどうかは別問題
です。「受容」は、苦手な人にとっては、非常に大きな課題にな
るそうです。



「私はあの人を受容している」というのは、思い込みなのかもし
れません。相手が「受容されている」と感じなければ、「なんち
ゃって受容」の域を出ないからです。「真の受容」のためには、
本当に地道で真摯な努力が必要だと思いました。




_____________________________







 自分で書いた文章だから、言わんとすることはわかるんだけど、
第三者が読んだら、意味不明だろうなという箇所がいくつかあって
結構ショックだった・・・時間が限られているとは言え、何度か読
み返さないと、ダメなんだなぁ、やっぱり。



 メルマガの原稿を書くのは、前々日と前日。もう少し余裕を持っ
て書かないと、読んでくださる方に大変失礼だと痛感・・・



 自分だけが読む文章ならともかく、ブログやメルマガは、「読ん
でくださる方」がいらっしゃるのだから、何度か読み返して、わか
りにくいところはちゃんと直すようにしたい。



コメント(1)

2010年 12月 14日

自分という井戸を掘る

カテゴリー かんがえごと,音楽

 
 
 
12/5に安藤裕子さんのライブに行ってきた。


会場は国際フォーラム「ホールA」。
ここは客席が5012席あるそうだが、ほぼ満席。


これだけの人数がいるのに、演奏中は実に静か。
演奏が終わるとホール全体に整然とした拍手が響き渡るので、
なんだかクラッシックコンサートのようだった。



ほぼ日手帳2011の9/3のページには、こんな言葉がある。

>ほんとうの意味で俳優と呼べる人は
>とくべつに優れた何かを持っている人です。
>何かを諦めながら、猛烈な努力をして、
>自分という井戸を掘り続けた人たちっていうのが、
>ぼくが抱いている「かっこいい俳優」のイメージです。
>—田口トモロヲさんが『あのひとの本棚。』の中で


安藤裕子さんは女優を目指していたそうだ。
(とってもってもキレイだし!)

でもあまり日の目を見る機会はなく、歌の道へ来た。

2年くらい前のツアーの様子を収録したDVDだったと思うが
「歌だったら誰かが見つけてくれると思った」
というようなことを話していた。



田口トモロヲさんがお書きになっている、

>何かを諦めながら、猛烈な努力をして、
>自分という井戸を掘り続けた人たち

の中に安藤さんもいるかもしれないなぁ・・・





彼女の曲で「隣人に光が差すとき」というのがある。


おそらく彼女の実体験に基づくものなのだろう。
それだけに、似たような気持を持ったことがある場合、
とても感情移入しやすく、共鳴(?)してしまうと結構大変。


この曲のことを「聴くのに勇気がいる」と思う人は少なくないらしい。
私も「えいっ」と少しだけ気合いを入れて聴くことが多い。


初めて聴いた時、号泣した。
その後も、しばらくは聴くたびに泣いていた。

今でも、自分のコンディションによっては、涙目になる。


>アナタニナリタイ コレジャタリナイ
>アナタニナリタイ コレジャタリナイ


私には具体的な「アナタ」はいないけれど、このフレーズを聴くと、
自分以外の誰かになりたくてなりたくて仕方なかった十代の頃の
感情が溢れ出してきてどうしようもなくなる。


完全に忘れていたはずなのに。
ここ十数年、こんな風に感じたことなど一度もなかったのに。
思い出さないだけで、記憶の中から消えることはないのかもしれない。



もっとも安藤さんの詞はこういう「痛みに刺さる系」は
それほど多くはないと思う。


それよりも、彼女独特の不思議な言葉の世界に浸りきって
迷い込みたくなる誘惑の方がずっと強い。
だから、静かにじっくり、全身で聴きたくなるんだろうな。


約5000の客席が埋まっているホールが
水を打ったように静まり返っても不思議じゃないと思った。






12/5のライブの4番目は「New World」だった。

>風吹けばいつも絡まって 名を問えば「我は迷子なり」
>名乗って手を取りたいよ 君の
>出会いはいつも 定めか悪戯

>みるみるうちに膨らむ 似た者同士がKey word
>何故だかわかるの そういうの
>出会いは定めさ
>出会いは定めなんだ


どこからこんな詞が降ってくるんだろう???
それとも彼女が掘り続けた井戸から湧き上がってくるのだろうか?



曲と曲の間のおしゃべりも楽しい。

「リハーサルで楽器に頭ぶつけて割れましたー
 見えますかー?」

明和電機の社長ブログによると、この楽器というのは、
「オタマトーンジャンボ」のことらしい。

同じ会場に社長さんもいらしてたんだー!!

オタマトーンジャンボがステージに登場した時は、
「参観日に子どもを見に来た親の気分」だったそうだ。

なんか、とっても、よーくわかるわ・・・(苦笑)






「置いてきぼりにしてきた気持ちを歌った曲」という
紹介があって始まった9曲目は「court」。


>あなたに似合う 薄いガラスのグラス
>街で見つけて 部屋に飾るんだよ
>猫脚椅子に丸いテーブル並べ
>明日もきっと 続けられるまで

>坂を見上げれば 季節も終わり告げて
>「さよなら」
>なのにまだ 追いつけないまま
>走ったら 胸に過ぎる痛み
>透き通ってゆける気がしてたのに


薄いガラスのグラスが似合いそうなひとも、
猫脚椅子も、私の人生には登場していないけれど、
「どうしようもなく手が届かない」と感じて
諦めてきたこと、心の中から消し去ろうとしてきたことが
なんとなく浮かんでくる。

人生のどこかで「置いてきぼり」にしてきたことって、
思い出さない(思い出せない)だけで、実はたくさん
あるんだろうなぁ。






「生きているといろいろある

 置いてきぼりにしていくことや気持ち
 生きていたとしても一生逢えない人
 戻れない時間

 悲しいけど、その続きも楽しみにしていきたい」


こんな感じのお話の後で始まった10曲目は「忘れ物の森」


>未来がもしもの呪縛に囚われ
>足を 止めていた
>でも生きていたいの
>誰かに伝えていたいの


このフレーズは、私にとっては少々重い。

失敗を恐れずに思い切ってやってみることが苦手なので、
これはちょっとだけ「痛みに刺さる系」だと思う。


思い切ってやってみることを避けると「可能性」を保留できる。
実際にはやらないことで
「もし、やったとしたら、うまくいくかもしれない」
を永遠に残せる。(苦笑)

これが、私にとっての「もしもの呪縛」。

結局は、可能性の保留なんかじゃなくて、
同じ場所に滞留しているだけなんだけど・・・






16曲目の「歩く」の前のお話はなんだか心にしみた。

「頑張っても頑張ってもできなくて
 くやしいことばっかり

 そうやっているうちに
 逢いたい人にも逢えなくなって・・・

 家族がいるなら電話して
 声を聞いてから眠りについてください

 憎たらしく思えても
 声を覚えていてほしい」




「歩く」
>心が きっと幼いんでしょう
>あなたのこと知ろうともせず 見誤っていた
>傷を付けることにだけ長けて
>牙をむけば 安らぐように

(中略)

>あなたの残したものを見つけ 胸に抱く
>今日はこれに名を付け 抱いて眠ろうと
>そして上る朝日に そっとキスを送り
>いつも通りの笑顔で きっと始めようと

>あなたが私に教えてくれた多くのこと
>今になって甦ってくる
>顔が少し似始めたようで
>鏡を見て 笑ってみせる


(中略)


>決して

>あなたを忘れないと 強く胸に刻み
>あなたの名を想っては 明日を迎えよう
>やがて空は動いて そっと星を降らす
>終わる今日を流して 夜は走り去る


これも彼女の実体験と彼女が掘り続けた井戸から
生まれた歌なんだろうなと思う。

深い想い。
切ない気持ち。
それを表現できる言葉。

使いこなすだけの技量が必要だけど、
改めて日本語ってスゴイと感じた。





アンコールの最初の曲は「青い空」

この曲の前のお話も印象的だった。

「10代の女の子からのもらった手紙がきっかけで
 生まれた歌

 手紙には『助けてほしい』と書いてあった
 でも、どうしようもない
 私には何もできない
 だから、特に何もすることはなかった


 もう道が見えないような人がいたとしても
 私は『絶対明日はいいことあるよ』とは言えない

 人が生きていく中で
 一生辛いことばかりの人もいる


 私はラッキーだった


 辛いこともあったけれど
 たくさんの人に会えて、運がよかった

 自分の先が見えない時、屋上から空を見ていた


 これだけきれいな空を独り占めできるなら
 明日もくるんじゃないかって

 きれいな空が見えたらいい
 きれいな空を見上げてほしい

 思いとどまって前に進んでほしい」







>私は『絶対明日はいいことあるよ』とは言えない
これを聞いて、彼女はやっぱり、
「何かを諦めながら、猛烈な努力をして
 自分という井戸を掘り続けた」んじゃないかなぁと思った。



最後の「問うてる」も、とてもいい歌。
「問うこと」って大事だと思う。


何かについて問われると、
そのことについて、自分がどれだけ知っているか、
どれだけ知らないか、とてもよくわかる。


わかった気になっていたことに気付かされた時、
鋭い痛みを感じる時もある。
恥ずかしくなることもある。



自分という井戸を掘る方法はたくさんあると思うけれど、
自分に対してたくさんの問いを発することも、とても大切なんだろう。


「自分」というのは、いつもそこにあるし、
いつも一緒にいる存在なんだけど、
改めて「自分に対して問う」ことでしか、わからないことって
たくさんあると思うから。




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2010年 6月 18日

1945年 上海・東京

カテゴリー かんがえごと

6/6のさくらんぼツアーは、山梨まで大型観光バスでの移動だった。
私の隣の席は母だった。


ちょっと前に『日中関係 戦後から新時代へ 毛里和子著』を
読んだので、戦争中のことを聞いてみた。



母は第二次世界大戦中、祖母・伯父と一緒に上海に疎開していた。
上海での暮らしについては祖母から聞いた話を断片的に覚えている。



私が知りたかったのは「どうやって帰ってきたのか」ということ。
まだ敗戦は決定的ではなかったにしても、戦局は相当悪化していたはず。

・・・と言っても、戦争中の日本については、疎開していた子どもの話を
少し読んだくらいで、あとは広島・長崎の原爆投下の際の不気味なキノコ雲、
一面の焼け野原、人が鈴なりになっている列車などの白黒写真のイメージが
いくつかあるだけだ。
この他に、小学生の頃、夢に見てうなされた「はだしのゲン」のマンガとか
高校生の時に見た、丸木美術館の絵の断片とか、そんなものしかない。

もっと知っているかと思ったが、愕然とするくらい知らなかった。
普通の人たちの生活がどうだったのか、ほとんど知らない。





母たちが日本に戻ってきたのは、1945年3月。
東京大空襲の後だった。


一緒に疎開していた人たちは、祖父の勤務先の関係者やその家族。
上海も危なくなってきたので、満洲へ逃げるか、内地(日本)に戻るかを
選ばなければならなくなった。


ほとんどの人たちが満州を選んだそうだが、祖父が死んでしまったので
母たちは内地に戻ることにした。
(祖父が死んだのは戦死なのか病死なのかは知らない)


この選択が運命の分かれ道だった。
一歩間違えば、母も伯父も「残留孤児」になる可能性もあった。
この時母は8歳、伯父は10歳だった。



「制海権が危ういって話だったから、釜山経由になったの」

母は8歳の時に「制海権」なんて言葉を知ってたのだろうか?
それとも音だけ覚えていて、あとで意味を知ったのだろうか?


釜山港の近くで待機していて
「船が出るぞー」
という声が聞こえると、荷物をまとめて飛び出していく。
それを1週間だか10日間だか繰り返したという話は祖母から聞いていた。


戦争中で、子どもが二人いて(しかも伯父は病弱)、
船に乗ったから大丈夫というわけでもなくて、
日本がどうなっているのかもわからないという状況で、
こんなことを繰り返していたら、気が変になってしまいそうだが、
出港を待っている人たちが大勢いたので、平気だったそうだ。

周りの人がみな同じ状態だと耐えられるらしい。



釜山を出港した船は門司へ。
そこから列車を乗りついて東京へ。

列車は普通に運行していて、切符も普通に買えたらしい。


東京は、一面の焼け野原で、
よく知っている建物が鉄骨だけになっていた。
この光景は、強い衝撃とともに母の中に残っているようだ。


東京では、○○さんという大金持ちの先生のお宅の
留守番をしているという親戚のところで5日ばかり過ごし、
祖父の実家がある茨城県へ移った。
(東京は焼け野原といっても、電話は通じていたそうだ)



茨城の家は、祖父の兄が家督を継いでいた。
祖父の母(祖母から見れば姑)は、
転がり込んできた母たちに良くしてくれたが、
祖父の兄弟が続々と戻ってきたので祖母は居づらくなり、
祖母の実家がある栃木県へ移った。


ここまでが母の話。
このあとが、私が10年以上前に祖母から聞いた話に繋がるんだと思う。


祖母は子どもを栃木の親戚に預けて、
配給品を届ける仕事を始めた。


その後、子どもたちを呼び寄せ、祖母は新橋に小料理屋を開いた。
配給品の配達から小料理屋開店まで
どのくらいの時間がかかったのかは知らない。


友達のおばあちゃんも全くゼロの状態から始めて
ビルを建てるところまでがんばったそうだが、
明治の女の人はつくづくすごいと思う。



私の結婚が決まった時、祖母はみかん箱いっぱいの食器をくれた。
新橋のお店で使っていたものも含まれていたようだ。
「Made in Occupied Japan」と裏に記されたお皿が二枚あった。



この話の最後に母はこんなことを言っていた。
「生活は大変だったけど、あの頃の方が生きやすかったかもしれない。
 みんな苦しくて、みんな大変だった。
 家も財産も失った人たちばかりだった。

 あの人はああだとか、この人はこうだとか、
 あんなずるいことをやってとか、こんなアコギな商売やってとか、
 そんなことは言ってられなかった。
 たいていのことはお互い様だった」




1971.07    田中角栄政権誕生。日中国交正常化交渉が動き出す。
    09.29  日中国交正常化。1945年以来の断絶状態が終わる。
1974.01    貿易協定締結。最恵国待遇、日中貿易混合委員会の設置等、
          日中経済関係が初めて公式に制度化。
                      『日中関係 戦後から新時代へ』より抜粋


1976年。
国交正常化から5年後、祖母・母は一緒に疎開していた人達と一緒に
約30年ぶりに中国・上海へ向かった。
当時住んでいた場所を見て、蘇州・杭州・無錫などを回って帰ってきた。




その時に記念に買った泥人形は今も実家にある。
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1976年も、今から34年前になってしまった。
今の上海は、母が知っている二つの時代の上海とは似ても似つかない場所だろう。
外国と言えるくらい違っているはずだ。


『日中関係 戦後から新時代へ』で一番印象深かったのはこの文章。
   >歴史は事実としてあった歴史だけではない。
   >後世の歴史認識を通じて、新たな「歴史が作られる」のである。

本当にその通りだと思う。

次の世代に、歴史をどう伝えていくか?
息子は、彼のおじいちゃん・おばあちゃん世代に起こった戦争を
どんな風に理解するのだろう?

歴史教育の重さを強く感じた。




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