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2010年 8月 02日

「愛と不安の夏」の舞台を見て

カテゴリー かんがえごと

「愛と不安の夏」の舞台を見てきた。

その前に邦子さんとみっちゃん^^さんとランチ。

みっちゃん^^さんのとってもおいしそうでおしゃれな写真付のブログ
http://ameblo.jp/azalee/entry-10607316444.html

こういう写真が取れたら、お食事もお茶もお料理も
きっと絶対に楽しいはず~!!


お食事から引き続き、二次会(?)のコーヒータイムでも話がはずんで、
とても楽しかった。







「愛と不安の夏」

非常に強い印象の舞台だった。

そして、見終わった後も
いろいろ考えてしまう舞台だった。


物語は原爆投下直後のシーンから始まる。
石井めぐみさんが演じる箕方絹枝というお母さんが
倒れかけた柱の下敷きになった子どもの名前を必死で呼ぶ。
観客という立場の者までが、心が押しつぶされそうな不安に襲われる。
そして、一気に物語の中へ、
1945年8月6日へと運ばれてしまう。


この舞台を見て「原爆乙女」という女性たちの存在を知った。

以下、パンフレットの記述を取り入れつつの感想。

被爆した25人の若い女性が治療のために渡米した。
彼女たちは日本では「原爆乙女」と呼ばれたそうだ。

この渡米はアメリカの民間人、文化人の有志によって興された
プロジェクトによるもので、手術費や入院費を無償にして協力する病院があり、
原爆乙女のホームステイ先になる家庭もあり、一般からも募金が集まり・・・

全身にケロイドを負った若い女性が、最先端の医療を受けられる。
そのこと自体は素晴らしい。

しかし、このプロジェクトで渡米できたのは25人。
(それでも当初予定していた人数より5人増やしている)

「治療により、治る見込みがある」というのが選考基準だった。

だから、当然
>手の施しようのない障害などを負っている被爆者は選考の対象とされなかった。
>大半の被爆者は放置されたままだった。

主人公の沙依子は、原爆乙女に選ばれた。
しかし、全身にひどいケロイドを負って
足をひきずるようになってしまった友達は選ばれなかった。


トリアージという言葉を思い出してしまった。


大事故や災害時など同時に大勢の負傷者が出た時、
怪我の状態や緊急度などによって、治療の優先順位を決めざるを得ない。
誰だって助かりたい。
一刻も早く治療を受けたい。
救急活動をする側だって、大勢の人を助けたい。


でも、医師の数が限られ、薬の量も制限されたら、
「救える見込み」によって命に優先順位がつけられてしまう事態が発生する。
(優先順位をつける側にも、ものすごい苦しみや葛藤があるのだろうが)


これは仕方ないことだとは言えない・・言いたくない。
現実的ではないのはわかっているけれど。

自分や自分の家族が関わることだったらと考えると
頭がおかしくなりそうだ。



沙依子とこの友達が会う場面は二回ある。
沙依子が渡米する前と帰国後。


このシーンはとても辛かった。
どちらにも感情移入してしまう。


帰国した沙依子は、友達を励まそうとする。
アメリカで知ったことを伝えようとする。

でも、友達は受け入れない。
受け入れないというか、受け入れられない。

沙依子が渡そうとしたお土産まで叩き落してしまう。


私もこの子の立場だったら、
沙依子が何を言っても
「あなたは治療を受けられたんでしょ!
 だからそんなことが言えるのよ!」
と突き放してしまうと思う。


そうやっても冷たく言い放っても、
「がんばってね。あきらめないで」
という沙依子の励ましの言葉を
「そうだよね。私も頑張るよ」
受け入れたとしても、どちらにしても
自分の状況が変わるようには思えない。

「渡米して治療さえ受けられれば全てはうまくいくのに」
という思いを余計に募らせる結果になってしまうかもしれない。



逆に沙依子の立場だったら・・・


渡米できたから、全てがうまくいくかというと
そういうわけでもない。
知らないほうがよかったこともあったかもしれない。
認めたくなくても認めざるを得ない事実もあったかもしれない。

お友達に対する
「がんばってね。あきらめないで」という言葉は
もしかしたら、自分自身に向けたものだったかのもしれない。



アメリカから帰ってきた沙依子と、弟とお母さんとで
海を眺めるシーンがある。

(めぐみさんが歌う「海」は心にしみた・・・)


治療の成果を喜び、弟とじゃんけんする沙依子。

なごやかな会話が続くが、戦争の話題になると、
姉弟の考えは真っ向から対立する。

「原爆を落としたアメリカが絶対に悪い!
 カタキをとってやる!」
と、アメリカを「集合体」として見る弟と、
アメリカ人と実際に交流してみて、
一人ひとりの「個人」として見る沙依子。


沙依子は弟に、自分の経験から得たことを話そうとする。
いろいろな考えの日本人がいるのと同じように、
いろいろな考えのアメリカ人がいる。
戦争が起これば、どちらの国でも大勢の人が死に、
それを大勢の家族が悲しむことになる・・・


「だからって原爆を落としていいのか?」
弟はそういって怒る。



お母さんがどちらの肩を持つことがなかったのは、
原爆投下直後の地獄を経験したことから、
弟の言い分を否定できない気持ちがあったのかもしれない。
また、母・主婦という生活者という視点から、
報復という行動では、永続的な平和や生活の安定が
得られないことを直感的にわかったのかもしれない。
だから沙依子の言葉も否定できなかったのかもしれない。

これは私の想像の域を出ないけれど・・・



先日、ビッグワードという言葉をきいた。
業界によって意味が微妙に違うようだが、私が聞いた話の中では
「誰もが知っているような一般的な言葉で、なんとなく
 わかった気になっている言葉」
というような定義だった。


「愛」とか「正義」とか「友情」とか。

「原爆」とか「戦争」とかも、ビッグワードかもしれない。

わかった気になってしまうのは、その言葉に付随するイメージや経験や
個人的な価値観や、こだわりなど、大量の「個人的なもやもや」が
くっついてるからなんじゃないのかなと思っている。

もやもやがものすごーーーく広がってしまうと、
「まあ、こんなカンジ」とまとめざるを得ないから(笑)



今回の舞台では、引き込まれ、感情移入してしまう場面が多くて
たくさん泣いた。


同時に、物語の進行の中に、時々スフィンクスが現れて、
いろいろな質問を投げかけてくるようでもあった。


カタリーナとジムのやりとりでは、
幸せとは?
明るい未来とは?
と、聞かれていたような気がするし、


酒場での海兵隊の元兵士の会話からは、
正しさとは何か?
それが許されない行為だとしたらなぜか?
許されないとは、誰が許さないことなのか?
と、聞かれていたような気がする。


プログラムには原作者からのメッセージも掲載されていた。
そこには、今回の舞台に出演する若い役者さんたちが
バイトのお金をためて、広島を訪れたと書かれていた。
また、物語のモデルになった女性のお母さんや妹さんにも会って
話を聞いた、というようなことが書かれていた。


私が子どもの頃は、第二次世界大戦は「両親の時代」だった。
今の若い世代だと「祖父母の時代」になる。


戦争や原爆についての本を読んで、さらにこの舞台を見て、
「自分の考え」を若い世代に書いてもらったら
一体どういう意見や考えが出てくるんだろう??


原爆投下から65年。


さまざまな歴史的資料が公開されたり、
長期にわたる研究の結果、新たな事実が明らかになったりしている。


こちらの日記でも引用したけど、
http://www.m2-dream.net/?p=2314

>歴史は事実としてあった歴史だけではない。
>後世の歴史認識を通じて、新たな「歴史が作られる」のである。
       『日中関係 戦後から新時代へ』毛里和子著


後世の歴史認識という編集作業によって、
原爆投下という世界的な事件に対しても、新たな歴史が
作られていくのだと思う。


ただ、これは歴史学者の先生だけが行うものではなく、
インターネットの世界の広がりによって、
情報の収集・発信が個人レベルでできるようになった現代においては
一人ひとりが、自分なりにやらなければいけないのかもしれない。


誰某先生がこう言っていたから、
この本にはこう書いてあったから、ではなく、
それらを踏まえた上で、
「だから/でも、私はこう思う。なぜなら~だから」
と、自分の言葉で表現できる必要があるのかもしれない。

そうそう簡単にできることではないけれど・・・




書きたいことはたくさんあるけれど、
また時間を置いて書きたいと思う。


本当に得るものの多い、素晴らしい舞台だった。



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2010年 7月 15日

Be here now

カテゴリー かんがえごと





息子のミニひまわりが咲きました。
通信講座の付録です。
それにしても、本当に「ミニ」だわ・・・



_______________



子どもは「今」にしか生きられない
おとなは「今」を生きるのが難しい

そんな話を聞いた。


子どもは、後先考えずに、放っておけばやりたい放題。
夢中になれば周りのことなど、何も見えない聞こえない。


息子と一緒にいてイライラするのは、
あの子は「今」にいて、私は「今」にいないからだ。




学童からの帰り道。


息子は、花を見つけては、あっちへフラフラ。
大きな水たまりを見つけては、こっちへフラフラ。


「!!」と、頭の中のアンテナが感知したものに即反応して
強力な磁石で吸い寄せられるように「今、ボクが見たいもの」に
近づいていく。


息子は帰ってからご飯作らなくていいし、
干してある洗濯物を畳んでしまったり、
お風呂を沸かしたりしなくていい。


だから、この子はいくらでも遊び呆けてていいし、
好き放題やっていられるんだと思っていた。



でも、そうじゃないらしい。



ハイデガーという人は、世界を「瞬間」でとらえていたそうだ。
世界は、一本の時間軸で貫かれたものではなく、
瞬間、瞬間で完結し、生成と消滅を繰り返すものだと。


ハイデガーの話は難しすぎるので、理解できないけれど、
息子を見ていると、「瞬間で完結」というのは
なんとなくわかる気がする。


今コレをやって、次にアレをやってという、
時間の流れに沿った「段取り」みたいなものはないらしい。


今は、花を見る。
花を見たいから。
花が「見て」って言うから。


小さい子は世界の中心は自分だと思っているので、
風が吹いてきたり、波が寄せてきたりするのは、
風や波が自分のことを好きだからだと考える。



波や風が生まれる理由は
合理的・科学的(?)に説明できるんだろうけど、

本当に波や風を「自分事」として、
「自分の世界の出来事」として捉えようとするなら、
「自分のことが好きだから」という理由を当てはめた方が、
海面に波が盛り上がり、白く砕け散る変化の面白さや、
吹いてくる風の心地よさや冷たさを感じられると思う。



花を見ている時、息子の世界には、
おそらく自分と花しかいないんだろう。


大人はペンペン草だ、白詰草だ、と「名前」を知っていることで
わかった気になってしまうけれど、
こどもにとっては、名前など二の次で、
ペンペン草だろうが、タンポポだろうが、
自分の世界に入ってきた「○○ちゃんのお花」という、
唯一無二の特別な存在なのだ。



こうやって子どもは道端の雑草にさえも『特別感』を持つので、
近づいてもっとよく見たい、
自分の指で触ってみたいという強い衝動に駆られてしまう。


その結果、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと
道路をまんべんなく歩くことになる。
(下校中の1年坊主なんて、だいたいこんな感じだろう・・・笑)



身の回りの世界と、こんなふうに濃密につきあっていたら、
「コレが終わったら、アレをやって・・・」という発想は
おそらく出てこないんじゃないかと思う。


今この瞬間に、目の前にある、特別なお花のことで
頭も心も一杯になっているはずだから。



子どもの頃の一日が長かったのは、
大人だったら一瞥して終わりにしていることに
イチイチ全身で向かい合っていたからなんだろう。



とは言っても、先のことを考えるのは決して悪いことではないと思う。
あらかじめ準備しておかなければならないことも
世の中にはたくさんあるから。



でも、常に遠くばかり見ていたら、
足元の穴とか石ころとかに気付かないのと同じで、
コレやったらアレ、アレやったらソレ・・と
頭の中を先へ先へと進めていたら、「今」起こっていることに
気付けない。



今の世の中、ただでさえやることが多いのに、
先のことを考えれば考えるほど、
アレをやって、コレをやってが増えていく。


やることが多いと感じるのは、
「やること」が雨後のタケノコのように
勝手にニョキニョキ生えてきているのではなく、
自分がそうしているからなんだと思う。


明日、明後日、週末、来月のことに思いを巡らせ、
そうなったら、アレもしなきゃ、コレもしなきゃって考えが
心の中にポコポコ浮かんでくるのを放置しているからなのだろう。



世間の空気の中に「生き急ぐ」という、
ある意味危険な香りが流れているのに
完全に鼻が慣れてしまっているので、
それに気がつかないのかもしれない。
だから、未来をどんどん先取りしようとしてしまうのかもしれない。



自分の本当の声・心の声を聞くために
ネットもメディアも完全に遮断して
一定期間、自然の中へ入っていくという人が結構いるらしいが
そういう人たちは「危険な香り」から
時には離れなければならないと本能的に感じたのかもしれない。




学童からの帰り道、放っておいたら道路の両側をくまなく歩き、
面白いものを見るためだったら、引き返すこともいとわない息子に
全面的に付き合うのは、到底無理だけれど、
たまには頭の中から
「スーパーでの買い物」や「夕ごはんの準備」を完全に追い出して、
自分だけの特別な「夕焼け雲」とか「綺麗な花」を見つけるために
ちょこっと時間を使ってもいいんじゃないかと思った。






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2010年 6月 18日

1945年 上海・東京

カテゴリー かんがえごと

6/6のさくらんぼツアーは、山梨まで大型観光バスでの移動だった。
私の隣の席は母だった。


ちょっと前に『日中関係 戦後から新時代へ 毛里和子著』を
読んだので、戦争中のことを聞いてみた。



母は第二次世界大戦中、祖母・伯父と一緒に上海に疎開していた。
上海での暮らしについては祖母から聞いた話を断片的に覚えている。



私が知りたかったのは「どうやって帰ってきたのか」ということ。
まだ敗戦は決定的ではなかったにしても、戦局は相当悪化していたはず。

・・・と言っても、戦争中の日本については、疎開していた子どもの話を
少し読んだくらいで、あとは広島・長崎の原爆投下の際の不気味なキノコ雲、
一面の焼け野原、人が鈴なりになっている列車などの白黒写真のイメージが
いくつかあるだけだ。
この他に、小学生の頃、夢に見てうなされた「はだしのゲン」のマンガとか
高校生の時に見た、丸木美術館の絵の断片とか、そんなものしかない。

もっと知っているかと思ったが、愕然とするくらい知らなかった。
普通の人たちの生活がどうだったのか、ほとんど知らない。





母たちが日本に戻ってきたのは、1945年3月。
東京大空襲の後だった。


一緒に疎開していた人たちは、祖父の勤務先の関係者やその家族。
上海も危なくなってきたので、満洲へ逃げるか、内地(日本)に戻るかを
選ばなければならなくなった。


ほとんどの人たちが満州を選んだそうだが、祖父が死んでしまったので
母たちは内地に戻ることにした。
(祖父が死んだのは戦死なのか病死なのかは知らない)


この選択が運命の分かれ道だった。
一歩間違えば、母も伯父も「残留孤児」になる可能性もあった。
この時母は8歳、伯父は10歳だった。



「制海権が危ういって話だったから、釜山経由になったの」

母は8歳の時に「制海権」なんて言葉を知ってたのだろうか?
それとも音だけ覚えていて、あとで意味を知ったのだろうか?


釜山港の近くで待機していて
「船が出るぞー」
という声が聞こえると、荷物をまとめて飛び出していく。
それを1週間だか10日間だか繰り返したという話は祖母から聞いていた。


戦争中で、子どもが二人いて(しかも伯父は病弱)、
船に乗ったから大丈夫というわけでもなくて、
日本がどうなっているのかもわからないという状況で、
こんなことを繰り返していたら、気が変になってしまいそうだが、
出港を待っている人たちが大勢いたので、平気だったそうだ。

周りの人がみな同じ状態だと耐えられるらしい。



釜山を出港した船は門司へ。
そこから列車を乗りついて東京へ。

列車は普通に運行していて、切符も普通に買えたらしい。


東京は、一面の焼け野原で、
よく知っている建物が鉄骨だけになっていた。
この光景は、強い衝撃とともに母の中に残っているようだ。


東京では、○○さんという大金持ちの先生のお宅の
留守番をしているという親戚のところで5日ばかり過ごし、
祖父の実家がある茨城県へ移った。
(東京は焼け野原といっても、電話は通じていたそうだ)



茨城の家は、祖父の兄が家督を継いでいた。
祖父の母(祖母から見れば姑)は、
転がり込んできた母たちに良くしてくれたが、
祖父の兄弟が続々と戻ってきたので祖母は居づらくなり、
祖母の実家がある栃木県へ移った。


ここまでが母の話。
このあとが、私が10年以上前に祖母から聞いた話に繋がるんだと思う。


祖母は子どもを栃木の親戚に預けて、
配給品を届ける仕事を始めた。


その後、子どもたちを呼び寄せ、祖母は新橋に小料理屋を開いた。
配給品の配達から小料理屋開店まで
どのくらいの時間がかかったのかは知らない。


友達のおばあちゃんも全くゼロの状態から始めて
ビルを建てるところまでがんばったそうだが、
明治の女の人はつくづくすごいと思う。



私の結婚が決まった時、祖母はみかん箱いっぱいの食器をくれた。
新橋のお店で使っていたものも含まれていたようだ。
「Made in Occupied Japan」と裏に記されたお皿が二枚あった。



この話の最後に母はこんなことを言っていた。
「生活は大変だったけど、あの頃の方が生きやすかったかもしれない。
 みんな苦しくて、みんな大変だった。
 家も財産も失った人たちばかりだった。

 あの人はああだとか、この人はこうだとか、
 あんなずるいことをやってとか、こんなアコギな商売やってとか、
 そんなことは言ってられなかった。
 たいていのことはお互い様だった」




1971.07    田中角栄政権誕生。日中国交正常化交渉が動き出す。
    09.29  日中国交正常化。1945年以来の断絶状態が終わる。
1974.01    貿易協定締結。最恵国待遇、日中貿易混合委員会の設置等、
          日中経済関係が初めて公式に制度化。
                      『日中関係 戦後から新時代へ』より抜粋


1976年。
国交正常化から5年後、祖母・母は一緒に疎開していた人達と一緒に
約30年ぶりに中国・上海へ向かった。
当時住んでいた場所を見て、蘇州・杭州・無錫などを回って帰ってきた。




その時に記念に買った泥人形は今も実家にある。
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1976年も、今から34年前になってしまった。
今の上海は、母が知っている二つの時代の上海とは似ても似つかない場所だろう。
外国と言えるくらい違っているはずだ。


『日中関係 戦後から新時代へ』で一番印象深かったのはこの文章。
   >歴史は事実としてあった歴史だけではない。
   >後世の歴史認識を通じて、新たな「歴史が作られる」のである。

本当にその通りだと思う。

次の世代に、歴史をどう伝えていくか?
息子は、彼のおじいちゃん・おばあちゃん世代に起こった戦争を
どんな風に理解するのだろう?

歴史教育の重さを強く感じた。




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