アーカイブ 「かんがえごと」

2016年 7月 07日

現実と夢



6月8日に異動して、そろそろ1ヶ月。
仕事は覚えることが多すぎてなかなか慣れない。



大きな流れ全体を俯瞰できれば、
<それを形作るピース>として、個々の仕事を
捉えられるのだろうけど、
それができていないと「群盲象を評す」状態で、
何がなんだかわからない。


遠い昔、営業に配属されたときに、、
管理部門の課長さんにカミナリを落とされたり、
赤い恥を沢山かいたりして、
やっと、意味がわかったことがたくさんあったけど、
ここでも無傷じゃいられないのかもしれないなぁ。
(といっても、あの当時よりだいぶ年を取っているから
 失敗のダメージは大きいかも・・・心配だ)


仕事はともかく、通勤は慣れつつある。
乗る電車も乗る車両(ドア位置)も決めている。
一駅前で、大勢の人が下車するので、一緒に降りて、
並んでいる人々の列の一番後ろについて、最後に乗ると、
次の駅でドアが開くと、すんなり降りられる。

ドア位置もエスカレータの位置にあわせてあるので、
降りれば即、改札へ向かえる。




駅から職場までは近いようで地味に遠い。
都庁周辺のようにワンブロックが大きいためか?


人の流れに乗ってボーっと歩いていたが、
植え込みに立派な百合が咲いているのに気づいた。
立派な百合なのに、野放し・・・
きちんと整えれば1本500円以上の値がつきそうだ。


会社の入り口から自席までも何気に時間がかかる。


前の職場なら、「computer control」と表示されている、
レトロなエレベータに乗り込んで
お約束の「がったん」の後、約1分で席に着けたんだけど。


前の職場については、汗と涙の苦労話(?)があったので、
強い思い入れがあるせいか、「前の方が、ヨカッタ」という
気持ちが消えない。


異動によって得たこと、よくなったことも
多々あるのはわかっているが。


通勤時間が延びたのは、最初は苦痛だったが、
この時間が読書に充てられると気がついてからは
ちょっと楽しみになってきた。


電車に乗っている時間は25分程度。
軽い新書だったら、二日くらいで読める。


数日前から「明恵 夢を生きる」(河合隼雄著 講談社+α文庫) を
読んでいる。
購入したのはだいぶ前。

2014年に土門拳記念館に行ったときに読まなければと
思ったけれど、引き続き「つん読」状態だった。
http://www.m2-dream.net/?p=10161



通勤時間に読み始めたら面白くて、
引き込まれてしまい、
行きも帰りも一瞬で降車駅についてしまう。


夢の本を読んでいることと
関係があるかどうかわからないが、
とてもリアルな夢を見た。


私にしては珍しく、<空を飛ぶ夢>だった。


年上の友人と一緒に飛ぶ準備をしていた。
なぜか、注射器で味噌汁を首筋に入れるという・・・


高い建物のベランダみたいなところから
普通に飛び降りると、
緩やかに落下していった。


目をつぶっていると景色が見えない、とか
飛ぶ意思を持たないと飛べない、とか
そういう声が聞こえたのか、
それとも自分でそう思ったのかは定かではないが、
目を開いて、飛ばなきゃ・・・
と思ったら、身体がふわりと浮かんだ。


どちらかというと、飛んでいるというよりは、
プールで水に浮いている状態に近い感じだった。


そのせいか、地上から相当高いところにいるにもかかわらず、
怖いという感覚は全くなかった。
自分の意思で行きたい方向へ
進んで(泳いで?)いったと思う。


しばらくして(もしかしたら直後?)目が覚めた。
目覚ましが鳴る5分前。
パッと目が覚めて、全く眠くなかった。
かなり深い眠りだったらしい。


印象的な夢だったので、ネットで調べたら、
自分の意思で空を飛ぶ夢というのは、
概ね<吉兆>と言えそうだった。

何かイイコトが起きるとか??


明恵の本を読み進めたら、
また面白い夢を見られるかもしれない。




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2016年 2月 25日

いい顔

カテゴリー かんがえごと



201602201602bb


職場の場所が変わって4ヶ月。


最寄駅から職場まで15分弱歩く。


<夜のお店>が並んでいる一角があり、
そのうちの一軒は、改装工事のため
クリスマスの後すっと閉まっていた。
先日、工事が終わったようで、
看板を一新して営業再開。



改装前、私の出勤時間帯に
このお店の入り口には、スタッフと思われる男性が立っていて
外を眺めていた。


彼を見かけたのは数回だけ。


でも、彼にとっての終業時間が、
私にとっては始業時間という、
ささやかな接点が面白いと思って印象に残っていた。


本当は、彼のほうがずっと年下なのかもしれないけど、
恰幅がいいせいか、年上か同い年くらいに見えた。


すれ違いざまにちらっと眺めただけではあるが、
とっさの機転が利くんだろうなぁという人懐っこい顔つきで、
酔っぱらった人のあしらいも、ソツなくできそうだった。




201602201602aa



『覆面リサーチ ボス潜入』(NHK)という番組を録画で2回見た。


ここに登場する、<スゴイ社員>の方々は、
みんなとてもいい顔をしていると思った。


(本人にとっては<スゴイ社員>なんて意識は全くなく、
 悩みや問題や壁にぶつかりながらも、
 どうやってそれを乗り越えたらいいかを真剣に考え、
 日々自分の仕事に向かっていくという感じなのだろうけど)



共通しているのは
「この人はちゃんとしてる・信頼できる」という印象。
「責任を持って仕事に取り組んでいる」という雰囲気。
イケメンや美人さんであっても、
顔が美しく整っていることより、
信頼感の方が勝っているというか。



夜のお店のスタッフの男性も
いい顔をしていたと思う。


「40過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉は
リンカーンが言ったそうである。
顔の造作は生まれつきだからしかたないという
反論は当然ではあるけれど、
年齢を重ねるにしたがって、
「基本のつくり」よりも、「どういう生き方をしてきたか」の方が
より強く顔の印象を決めている気がする。


自分の年齢を書かなければいけない場面のたびに、
ぎょっとするお年頃となった今、
若い時以上に頑張らないといけないのかもしれない。


第三者からみていい顔をしているだろうか?
年齢相応の常識とか人生経験があるのだろうか?
オトナとしての「器」を持っているのだろうか?

耳をふさいで「あ~あ~ きこえない~♪」とか
言いたくなる。


先日、「葬送の仕事師たち」という本を読んだ。
この本の中で著者の質問に応えている方々は、
とてもいい顔をしているに違いないと感じた。



このひとたちのお世話になるときには、
もう、自分は自分ではなくなっているけれど、その時までに、
「いい人生を送ってきたんだろうな」と感じさせるような
いい顔になっていたいものだ。






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2016年 2月 17日

続けることが一番難しい





週末に息子の学童のダンスの発表会に行ってきた。



以前から、ダンスが上手な子は本当に上手だと思っていたけれど、
レベルがさらに高くなっていてビックリ。

全体的にスキルが上がっているのだろう。



「エースをねらえ」の中で、藤堂さんのセリフだったか
「俺たちの背中を超えて世界へ飛び出していく奴が出てきた」
というようなものがあった。


息子の学童は、現時点で卒業生を2回出しただけではあるが、
「先輩たちが到達できた場所」があるからこそ、
後輩たちがそこを超えて、さらに伸びていくんだと思う。



上手な子が増えれば増えるほど、
「あんな風に踊りたい!」とか、
「アイツには負けたくない!」などといった
がんばる気持ちが生まれるのだろう。



ダンスに限らず、どんな分野においても、
突然変異みたいな天才がぽこっと出てくることはあるだろうけど、
周りの人たちが同等のレベルに達していないとしたら、
その天才は、孤独を感じるかもしれない。

本人がどんなに努力していても
「天才だからできるんでしょ」
の一言で片づけられてしまうこともあるだろう。

そんな状況で、がんばるモチベーションを、
たった一人で維持するのは、本当に難しいと思う。



競技人口が増えることで裾野が広がり、
全体としてのレベルが向上しないことには、
レベルの高い人間同士が切磋琢磨して
さらに技に磨きをかけていくという状況は生まれないだろう。


ダンスバトルの際、「外部バトラー」という、
スーパーダンサーたち(でも、小中学生!)が参戦していたが、
彼らの戦いぶりを見ていてそう思った。



最後にゲストダンサーによるショーがあった。
ダンスのことは本当に疎いのだが、
数々の賞を受賞しているブレイクダンスチームで、
ダンスを習っている子どもたちにとっては「憧れの的」らしい。

このダンスチームの一人が
ダンスバトルのジャッジも担当した。
ジャッジは5人いたが、見る人が見れば
「錚々たるメンバー」だったようだ。



このダンスチームのRさんという方が、
ダンスバトルの講評で話していたのは、

「ダンスを続けることが一番難しい。
 楽しく続けてほしい」

ということだった。


今、ダンスに燃えに燃えている小中学生には
全然ピンと来ないと思う。


何かを続けることは本当に難しい。
たくさんのことを放り出したり、
辞めたり、諦めたりしてこないと、
<続けることの難しさ>はわからない。


才能にあふれている子どもほど、この言葉をずっと覚えていてほしい。
ダンスを辞めたくなった時に、憧れの人の言葉を思い出して、
頑張って続けてほしい。


<憧れ>と言えば・・・
このチームを発表会に呼んだのは学童の責任者だが、
長い間踊ってきた人で、今でもすごい技ができる。

10年以上前にこのダンスチームが大会で優勝したのを
はっきり覚えていて、その時からずっと注目していたという。

今日、憧れのダンスチームのパフォーマンスを目の当たりにして
興奮しているようだった。


大人になってもそういう気持ちを持ち続けていて
それをごく自然に表現するから、
この責任者は子どもたちの心を惹きつけるのだろう。



学童の運営だけでなく、地域の活動にも邁進している彼は、
「ダンスを続けることが一番難しい」の言葉に
深く同意したに違いない。



いろいろ考えされられる一日だった。




息子はというと・・・
彼は、6年間、自分が踊りたいように踊っていた。
「当社比」では、格段に進歩しているけど、
チームの中で踊っていると・・・うーむぅ・・・


でも、踊るのが楽しいと思ったから続けられたんだろうし、
大好きな「オンステージ」を何度も経験できたのだから、
よかったと思う。
(さしあたって「ハンドグライド職人」には到達できたことだし・・・笑)


ダンスのステージはこの日でおしまいになったが、
夏にはピアノの舞台が待っている。


中学に入ったら、ピアノを続けることが難しくなるかもしれないけど、
8月の発表会を目指して頑張ってほしい。
(今年からは「舞台衣装=中学の制服」になるので、母は一安心)





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2016年 1月 21日

歌詞

カテゴリー かんがえごと



今月の日経新聞の「私の履歴書」は小椋佳氏。
これが、なかなか面白い。


東大卒の優秀な銀行マンで
仕事をバリバリやりながらも
積極的に音楽活動も進めて、
両方でスゴイ結果を出している人だと思っていたが、
いい意味で、そのイメージは裏切られている。


私にとって、小椋佳と言えば、『シクラメンのかほり』。

しかし、この歌の出だしの「まわたいろした」が日本語に聞こえなかった。
“真綿色”なんて当時の私の語彙には存在しなかったし・・・


「疲れを知らない子供のように」の部分については、
子どもだって疲れるんだよ、と思っていた。


オトナになってだいぶ時間が経っている現在、
「子供が疲れるって言ったって、一晩寝ればフル充電でしょ」と思う。
「なんで、そんなにエネルギーが有り余ってんの?」と言いたいところだ。


今は、この歌詞に続く、
「時は二人を追い越してゆく」
の方が、ずっしりくる。

時間が経つのはなんでこんなに早いのか。

その理由について、ある方が「ジャネーの法則で検索してみてください」と
教えてくださった。


ジャネーの法則についての説明サイトをいくつか見たところで、
姪っ子の可愛い発言が頭に浮かんだ。


今から10年以上前、当時3歳だった姪っ子が
「あたし、むかし、泣いたよね」
と言っていた。

むかし??? って思ったけれど、
3年しか生きていない彼女にとって、
たった1年前だって、立派な<むかし>。

4年前だったら、この世に存在してない。
きっと、<ものすごくむかし>なんだろう。


年齢によって時間の感じ方はすごく違う。

大学時代、お年を召した教授が
「こないだの戦争」とおっしゃったので非常に驚いたが、
彼女の年齢からいったら、第二次世界大戦は
「こないだ」だったのだろう。



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あるサイトに「小椋佳氏の歌詞には、外国語が入ってない」との
コメントがあった。


それを読んで、思い出したのが、村下孝蔵氏の「初恋」。
この歌詞には、カタカナ英語は出てこない。


ラジオのベストテン番組を熱心に聴いている時期に
この歌を知って大好きになった。


その後、長い間忘れていたけれど、
数年前にyoutubeで聴けることを知り、何度も聴いた。


『初恋』は、詩の美しさもさることながら、
村下氏の声の美しさも素晴らしい。

それ以上に惹きつけられるのは、
歌によって呼び起される遠い昔のイメージだ。


「放課後の校庭を 走る君がいた
 遠くで僕は いつでも 君を探してた」

特定の誰かを探していたわけではないけれど、
教室のベランダから校庭を見下ろして、
トラックを走る運動系の部活の人たちを
眺めていたことを思い出す。


その当時のyoutubeのコメント欄には、
遠くから「校庭を走る君」を探していた人たちが
学生時代の思い出を綴っていた。


この歌は、<放課後の校庭>以外にも、
遠い記憶の中の印象的な風景を想起させる言葉がある。


「五月雨は緑色」
「夕映えはあんず色」 
「風に舞った花びらが水面を乱すように」


普段着というか、履き慣れた靴みたいな、
身近な言葉しか使っていないのに、
緑の葉を茂らせた街路樹の下を黄色い傘をさして歩いたこと、
金色の雲と、まさに「あんず色」の空を見ながら帰ったこと、
桜吹雪の中、川べりの道を部活の練習で走ったことを思い出す。

その時、長い間覚えていられるような特別なことはなかったはずなのに。
もしかしたら、
10代の頃にそういう景色を見たような気になっているだけかもしれないが。


普段着の言葉のように見えても、
村下氏が細心の注意を払って、真珠の選別のように
たくさんの候補の中から「これぞ」という言葉を
ピンセットで取り出して、黒いビロードの上に、
きれいに並べていったのが『初恋』の歌詞なのかもしれない。


『初恋』の歌詞は美しい。
『初恋』の歌詞は日本語で書かれている。
ゆえに、日本語は美しい・・・だから、私の日本語も美しい!
って、言いきれるといいんだけど。


どんなに素材が良くても、
料理する人によっては、美味しくない料理になってしまうのと同じで、
日本語そのものがどんなに美しくても、
話し手、書き手によっては、その美しさが曇ってしまうこともある。


外国の日本語学習者の中には、きれいな日本語を操る人が少なくない。
意識して日本語を使っているからだろう。


先日読んだ本に
自分自身も聞き手の一人になって、
話しながら<聞く意識>を持つようにする
というような内容があった。


我が道を暴走中の息子に対しては、
言葉を投げつけるような言い方をしてしまうけど
まずここから気をつけなければ・・・・
「どんなときにもカッとならない魔法の薬」が欲しい。




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2015年 7月 16日

ピアノ発表会2015




灼熱の太陽が照りつける土曜日に
息子のピアノの発表会があった。


毎回、気を揉むのは舞台衣装。


女の子は本人がやる気満々だから、
レンタルしてでもドレスを着せる甲斐があるけれど、
男の子は、本人がどうでもいいと思ってるから、
レンタルする気も起らない。


かといって、普段着というわけにもいかず・・・
今年は救いの女神が現れて、
彼女の息子が数年前に使った<男の子発表会セット>を
譲ってくださった!
白シャツ、ベスト、スラックス、ネクタイ、皮靴・・・なんてありがたい!!


靴は去年の発表会の時に買ったものが
まだ履けると思っていた。


先端に古い靴下を切って丸めたものを突っ込んだ状態で履くと、
どうにか脱げなくなるという状態だったので。


しかし・・・!


発表会の数日前に履かせようとしたら
「はいらない・・むり」
という。


植物並にむくむく大きくなっているらしい。


いただいた皮靴は24.0だったので、大きいかなと思ったが
「これ、ちょうどいい」
という。


特に詰め物もいらないらしい。


発表会セットをいただいた日に着せてみて問題なかったが、
念のため、前日にもう一度着せてみた。


ちょうどピッタリ!・・・ということは来年は着られないということだ。
でも、来年は中学生だから、制服を着せればいいや。


今年の発表会の会場も、
例年通り、バブルの気配が濃厚に漂う音楽ホール。


息子の登場前は緊張MAXになるのだが、
本人はスポットライトを浴びてステージに立つのが快感らしい。



息子は一カ所だけ音を外した。
その瞬間、全身から汗が噴き出した。
しかし、当人は落ち着いたもので、平然と最後まで弾き切った。
幼稚園のお遊戯会から始まって、
それなりに広い会場の舞台に立つ経験をしてきたからだろうか。
あの度胸には恐れ入る。


毎年思うことだが、
ド素人の私がほんの数小節を聞いただけで、
華がある音というか、音符がキラキラしている演奏は
すぐにわかるのはどうしてなんだろう?


鍵盤をたたいているのと、
ピアノを奏でているのの違いなのか。


本当にハッキリわかる。


曲の難易度にかかわらず、というか、むしろシンプルな旋律の方が
音の華やかさとか煌きが際立つ。


でも、現時点では音の輝きが感じられなくても、
将来どうなるかはわからない。


素人は、<今の状態>しかわからないけれど、
見る人が見れば、まだ芽吹いていない才能に
気づくかもしれない。


その昔、富山県のヒスイ海岸で翡翠を探したことがある。
いかにもな緑色の小さなカケラが翡翠である確率はもちろんあるけれど、
一見、灰色っぽいタダの石に見えるものが見事な翡翠だったりする。
宿の床の間に飾られていた明るい灰色の石は翡翠だった。
どうしてこれが翡翠だとわかったのか不思議だった。
地元の人ならすぐにわかるらしいが。


これと同じように、まだ音に輝きが生まれていなくても
<内なるピアニスト>がゆっくりと目覚めはじめている状態の子は
ベテランの先生から見ればわかるのかもしれない。


これも毎年思うことなのだが、
ピアノを弾いているときと、普通のときでは
子どもたちは別人のように印象が変わる。


特に高校生の女の子は、ピアノの演奏中は
ものすごく大人っぽくて、とても10代には見えない。

高校生くらいになると「曲の解釈」も入ってくるらしい。
楽譜上では、数珠つなぎのように記されている和音を
何小節も連続して間違えずに弾けるだけで驚いてしまう
フツーのおばさんには理解不能な世界だ。


知力・体力ともMAXへと向かっている若い世代は
本当にすごいなぁと思う。


自分にもそういう時期があったはずなのだが、
その真只中にいるときには、気づけないのだろう。
上昇気流に乗っている状態が当たり前なのだから。


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2015年 3月 18日

不思議なこと

カテゴリー かんがえごと






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<不思議な話>というのは、文字にするのも
他の人に話すのも、なんだか躊躇してしまう。
特に自分が関わっている内容については。



スピリチュアルな能力を持っている人は
幼ない頃から不思議なものが見えたり、
不思議な声が聞こえたりするらしいが、
私にはそういうことは一切なかった。


だから、不思議な経験をしても、
自分でも信じられないし、
何かの錯覚ではないのかと思ってしまう。




スピリチュアル系のことは嫌いじゃないし
むしろ好きな部類であるが、
スポーツに「実践系」と「観戦系」があるように、
スピリチュアルには、
「当事者系」と「第三者系」があるような気がする。
もちろん私は後者。





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バイオリズムの曲線のごとく、
スピリチュアル系のことに興味津々になる時期と
それが薄れる時期がある。


興味津々の時期に、知人の紹介で
とっても不思議なヒーラーさんに出会った。
駅とか、コンビニとか、銀行とか
現実的・具体的な場所にこの人が立っていたら、
なんだかヘンな感じがすると思う。
それくらい不思議な印象が強かった。



このヒーラーさんのヒーリングを定期的に受けていた時期がある。
(精神的・肉体的に疲弊している時期と
 スピリチュアルな方向に心の重心が偏る時期とは
 重なっているような気がする)



ヒーリングといっても、向かい合って座っているだけなのだが、
(ヒーラーさんはあれこれ儀式をやるが、当方は目を閉じて座るだけ)
終わると、とってもさっぱりするので
「今月のヒーリング・デイ」のお知らせがあると
毎回申し込んでいた。




ある時期、肩こりが超絶にひどかった。
整体院では「ほぐし甲斐がある」と言われるレベル。
コリと重苦しさがかなり強く感じられた時期に
ちょうどヒーリング・デイがあった。


ヒーラーさんは私が座るとすぐに
「なんだかものすごいのがついていますね」
と言った。




え??
ついてる・・・ツイテル・・・憑いてるってこと???




「それで・・・重くないですか?」

「はあ、いつもより少し重苦しいっていうか・・・」

ヒーラーさんは焦点が合っていないような不思議な眼をして
「このへんじゃ見ないタイプですねぇ」
と、きっぱり言った。




ええええ??
憑いてるものが見えてる・・・????



このヒーラーさんの持論(?)は、
『普通に生きていれば、何かしら汚れたり憑いたりする。
 だから定期的なお掃除が必要』
というものだった。


お風呂に入って身体を洗わないと汚れるし、
部屋を掃除しなかったら埃が溜まる一方・・・
といったフツーの感覚だと思う。
・・・どういう理由で汚れるのかは別として。





この日もいつも通りにヒーリングが始まり、
私は目を閉じていた。


すると、突然、何かがズルッと外れるというか、
ズボッと抜けるような感じがした。


首とか肩にかけていた重い荷物を
誰かにさっと取られたような、
完全に受け身な感覚だった。


この<ズルッ><ズボッ>には、ものすごく驚いた。


「憑いてたの、取れましたね」
ヒーラーさんはそう言って笑った。




<見えない世界は、本当にある!!>と確信した。


しかし、時間が経つにつれて、
「見えない世界は、ある場所にはある」
「見えない世界は、アクセスできる人にとっては存在する」
という考えに変わっていってしまったが・・・



やっぱり、
  『肩が凝って重くて仕方なかったけど、
   これは、このへんにはいない「憑きモノ」のせいで、
   不思議なヒーラーさんが取ってくれたの。
   取れるとき、ズルッていう生々しい感覚があったよ。
   「憑きモノ」ってホントに存在するんだね』
なんて、家族にさえ言えない。
家族だからこそ言えないという部分もあるけど。



親切な友人だったら「へぇー そうなんだ」と
その場では相槌を打ってくれるかもしれない。
でも、後になって、「・・・何かあったんだろうか??」と
心配になるかもしれない。






それから約半年後くらいだったか、
ヒーラーさんからのお知らせメールが来なくなり、
携帯サイトはリニューアルっぽいモードのまま更新されず、
この人に関するネットの情報も潮が引くように消えてしまった。



なんとなくだけど、海外に行ってしまったような気がしている。
「見えない世界」への入り口が、そこかしこに開いているような国へ
移住してしまったような感じがする。




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ここ数カ月にわたって、日常生活には支障はない程度だが、
じわじわした痛み、突発的なピキッとした痛みが続いていた。



ネットでいろいろ調べて、
症状をつきとめた気になっていた。



鍼を打ってもらうと痛みは軽減するが、
寒さのせいもあって、しばらくするとぶり返す。



いつになったら快癒するんだろうか?
普通に生活できるとはいえ、
このままこの断続的な痛みと付き合っていくことになるのか??




そんなある日、開封せずに削除することも珍しくないくらいに
真面目に読んでいないメルマガを
なんとなく開封して目を通したら、
あるお医者さんのことが紹介されていた。


この先生に興味を持ったので、
病院をネットで調べてみたら、自宅からはそれほど遠くなかった。


診療予約ができるそうなので、電話をかけてみた。
受付の女性は、とても親切に対応してくれた。


数日後、病院から電話がかかってきた。
私が予約した日は、申し訳ないが診療ができなくなったので、
別の日にしてもらえないかということだった。



縁がなかったのかなと思って
キャンセル扱いにしてもらい、
またこちらから連絡するということで
電話を切った。



その後はなんだか落ち着かなくて、
やっぱり行くべきではないかと思い始め、
手帳を調べて候補の日をいくつか選び、
病院に電話した。


一か月先になってしまったが、予約は取れた。
結果としてはこの日付になってよかった気がする。



201503ashinari004




予約の日、診察室に行くと、
先生は、白衣ではなく、
検査技師のような雰囲気の服を着ていた。
色は濃紺だった。



医師というよりは、高度な技を必要とする競技の
ベテランコーチみたいな印象だった。
(体育系と専門性が混ざっている感じ)



すぐに検査とかするのかと思ったら、
カウンセリングっぽい世間話のようになり、
そのうち、<ふわふわしてないスピリチュアル>の方向へ。


すごくびっくりした。
西洋医学一辺倒ではないことは事前にわかっていたけれど、
精神世界っぽい話を大きな病院で聞くことになるとは。



しかも、知っていても、ちょっと口にするのはためらうような、
バリバリ・スピリチュアル(?!)とでも言えそうな内容まで・・・
(単に私がそう思っているだけで、先生にとっては、
 診察の一環としての説明に過ぎないんだろうけど)




医学的な検査をして、
何か病名がつけられて、
必要と思われる薬が処方されて、
日常的に行うといい体操とかを教えてもらえると思っていたので、
かなり拍子抜けした。
来たことを後悔し始めた。


でも、先生の話を聞いているうちに、やっぱり来てよかったと思った。
私が陥っている状況をズバリ指摘されたときは、
さすがにムッとしたけど、本当のことだったし、
自覚していたことだから反論できなかった。
その昔、「人間は本当のことを言われると怒る」と、
マンガか何かで読んだけれど、まさにその通りだった。


一通り話が終わって、部屋の隅の硬いベッドに寝るように言われた。
仰向けに寝てくださいと言われて、横になると、
先生は簡単な検査をした。
「問題なさそうですね。ではうつ伏せになってください」
私がうつぶせになると、
先生は背中の下の方というか、腰の上の方に両手をあてた。



レイキみたいな暖かいものがじんわりと感じられた。
(実際にレイキだったかどうかはわからない)



その間、家族のこととか、仕事のこととか、日常的な話をした。
終わると妙にすっきりしていた。


じわじわした痛みが完全に消失したわけではないが、
「もう大丈夫」という感覚があった。



具合が悪くて寝込んでしまったとき、
昏々と眠り続けているうちに、
やがて訪れる<あの感覚>と同じものだと思った。
これがないと、熱が下がっても身体に力が入らないが、
これがあると、多少熱があったとしても、
回復しつつあるという感じがしてくる。



「もう大丈夫」と感じたのは、
先生のヒーリングの効果だったのか、
自分の意識が変わったからか、
それとも痛みが引き始めるタイミングにちょうど差し掛かっていたのか。



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重要人物が顧客になっているような、
パワーのあるヒーラーは、
ヒーリングを行った後、クライアントを医者に行かせて、
レントゲンなどの検査を受けさせるそうだ。
そうすることで、ヒーリングの効果が本当に確認できるらしい。
すごく不思議なことではあるけれど、そういう現実があるのなら、
先生のヒーリングの効果だという可能性は高い。




先生のお話を伺って、痛みに対する意識がまるっきり
変わってしまったことも、大きな意味を持つかもしれない。
「意識が現実を創造する」という、しょっちゅう耳目にするものの、
でも、心のどこかで疑っていた言葉は、
どうも本当らしいという気がしてくる。



まだ痛みがぶり返すことはあるけれど、
病院に行く前に比べたら明らかにラクになった。



ふと、10年近く前に読んだ『<からだ>の声をききなさい』を思い出した。
著者のリズ・ブルボー氏の本は、むさぼるように読んだけれど、
『私は神!』を読んだあとは、憑きモノが落ちたように(笑)読まなくなった。
本が残っていないということは、ブックオフにでも売ってしまったのだろう。


amazonで調べたら、『<からだ>の声をききなさい』の増補改訂版が
2013年に発行されていた。


このタイトルこそまさに、現在の私にとっては
<肝に銘じるべき言葉>である。


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2015年 1月 21日

季節の行事

カテゴリー かんがえごと



2015年になってあっという間に20日経ってしまった。


時間の流れが早いのは、
日々の出来事の中で印象に残ることがあまりに少ないせいなのか、
それとも、世の中の流れが、
常に、先へ先へと進んでいるため、
<生き急いでいる>感じが強いせいなのか。


年末から春先にかけての食品売り場の経緯。
クリスマス→年越し・正月→恵方巻→バレンタイン→雛祭り・・・

全部、前倒しで宣伝して盛り上げようとしてるけど、
うーん・・・どうなんだろう??


恵方巻なんて、子どものころはなかったけどなぁ。
数年前に一度だけ買って、それっきり食べていないかも。

バレンタインは、女子同士で贈り合う友チョコとか、
自分にご褒美系が増えてるらしいが、
デパートのバレンタインチョコの特設会場へ行ってみると、
確かにそうだと思う。

小物入れとして使えそうな、とても可愛いパッケージとか、
繊細で美しい模様が描かれたチョコレートなどは、
男性が喜ぶとは到底思えない。



お店に行けば、イベントに合わせて、関連商品を販売するので、
季節を感じることができなくもないけど、家の外に出ないとわからない。


息子が小さいときに、これじゃマズイと思った時期があって、
「桃の節句」「端午の節句」には、
ガラスケースに入ったお人形を、毎年出すようにしていたが、
それでも足りないと思ったのか、室礼(しつらい)の本を買ったりもした。


・・・買っただけで、何か達成した気分になってしまうのは、
  学生時代の参考書・問題集の購入のときと同じだなぁ・・・汗


「室礼(しつらい)おりおり」  山本三千子著より

> お正月は元来、年神さまを迎えて旧年の実りと平穏に感謝し、
> 新年の豊穣と平安を祈念する行事でした。
> 「年」は「稔」に通じ、年神とは作物をつかさどる神であり、
> 稲穂が稔って熟するまでの期間を年という、とされていたのです。
> 子どものころの楽しみであったお年玉は元来、
> この年神さまから賜る神聖なものだったのです。
> 年神の霊魂は元旦に再生し、その新たな活力に満ちた息吹で、
> 人間を復活させるといわれています。
> お正月に「おめでとうございます」と挨拶を交わすのは、
> 新たに再生した年神さまへの言祝ぎなのです。


「室礼」の本、再読のはずなのに、まるで初めて読む気分。
どういう読み方をしていたんだか・・・汗

日本家屋にピッタリな雰囲気の、
清楚で凛としたしつらいは真似したくなってくる。

でも、その前に、<本気の掃除>が必要かも。

季節ごとにこういうしつらいをするお宅は
やっぱり素敵でお上品な奥様がおいでなんだろうなー


家の中で季節を感じるのっていいなぁ。



そういえば、実家で暮らしていたときは
その季節にふさわしい行事があったんだよなぁ。

1月:お正月/一大トランプ大会(セブンブリッジ20回戦とか)
2月:殻付きピーナツの豆まき、
3月:雛人形を飾ってひな祭り(娘たちは芸を披露)
4月:入学・進級のちょっとしたお祝い
5月:柏餅をもらいに行く、菖蒲湯
7月・8月:花火大会、海水浴、お盆のお墓参り(父方)
9月:お墓参り(母方)
10月:運動会
11月:文化祭、公民館に菊人形を見に行く
12月:クリスマス会、柚子湯、大掃除


前世紀で昭和のことなのに、
これだけしっかり覚えているということは
心に残るものだったのだろう。


年齢の割には超幼い息子は、
未だにこういうイベントを喜びそうだな。

でも、ほんの数年で、
「家族の行事なんか、つきあってられっか」に
なってしまうだろう。

実家での雛祭りやクリスマスも、
姪っ子が参加しなくなったら、
中断してしまうかもしれないなぁ。



今年は、手軽に準備できる範囲で
季節のしつらいやイベントに挑戦してみようかな。


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2015年 1月 07日

変化がない・・・

カテゴリー かんがえごと




年が改まったはずなのに、1週間近く経過すると、
なんだか去年の続きというか、フツーの日々になってしまう。



細々と続けている10年日記も、なんと●冊目で、
しかも4段目(=4年目)になってしまった。
(●冊目は恐ろしくて認めたくない数字)



過去の10年日記を読む機会があったが、
成長してないというか、なんというか・・・がっかり。



悩みの内容とか、困りごとの内容が
長期に渡ってさして変化しないというのは
本気で解決しようとしていないという理由もあるだろうが、
停滞・滞留の証なのかもしれない。


見た目は着実に年を取っているのになぁ・・・


精神的な若さを保ち続けているなどと
こじつけられないこともないけど、
責任感の欠落とか、器の小ささとか、
考えの甘さとか、見通しが立てられないとか、
バカさ加減が不変というのはいかがなものか・・・


忘却能力だけ飛躍的に向上していることが
悩みの内容が変わらない最大の理由かも。


「この癖を改めよう」
「こういうことが起こらないようにしよう」
と、何度も決意してるんだけど、そのことを
驚くほど見事に「ケロリン」って忘れちゃうんだもんなぁ。


きっかけがあれば思い出すんだけど、
きっかけがなければ、そんな事実はまるでなかったかのように
消え失せてしまう。


大事なことは書いておけばいいと思ったけれど、
書いたことさえ忘れてしまう。



仕事の場面では、いつもノートを広げておいて
必要なことはどんどんメモして、
頼まれたことには、できるだけ早く対応して、
「自分のところにボールがない状態」
を保つように努力している。


それにしても、自分の記憶力が一番アテにならないって・・・涙


こんなんでホントに大丈夫なんだろうか??


約2ヶ月後には人間ドックが控えている。
検査項目に脳は含まれていないんだけど、
そろそろ脳ドックを受診すべきお年頃なのかもしれないなぁ。








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2014年 11月 06日

名前の力

カテゴリー かんがえごと

201411P4193190


ある方のブログを見ていたら、
“オーダーしたお香が届いた”という文章があった。


お香をオーダーできるのか・・・と思って、
ブログの文中のリンクをたどると、
お香のお店のサイトが出てきた。
メニューの中に「対面お誂え」の文字が。


<お誂え>の3文字に、ものすごく惹かれてしまった。
  誂える:自分の思いどおりに作らせる。注文して作らせる。


5年くらい前に、「世界に一つだけのコート」を手に入れたときの
楽しい記憶がよみがえってきて、ぜひやってみたい!と思った。


予約した日はあいにくの雨降り。
お店の場所は、メールでわかりやすい説明をいただいていたので
迷わずに行くことができた。


店主は「香司」の肩書を持つ、とても素敵な女性。


13歳のハローワーク 公式サイトによると・・・
> 香司(こうし)とは、香料選びから調合、仕上げまで、
> お香の制作に関する一切の責任を負う人。
> 天然香料についての専門知識と研ぎ澄まされた感性を持ち、
> 伝統の製法に基づく奥深い香りを生み出すスペシャリストである。


対面で作っていただくのは、塗香(ずこう)というもの。

実は、これまで塗香がなんたるかも知らなかったし、
「塗香入れ」なる道具が存在することさえ知らなかった。


「塗香」は、お清め(浄化)のための粉末のお香。
ごく少量を掌にとって、両手をこすり合わせるようにして塗り付ける。
「塗香入れ」は、塗香の少量の取り出しがしやすくなっている容器。
お値段はピンキリ。


塗香は、さまざまな浄化の場面で使えるもので、
写経の前に使うのもよいとのこと。
一昨年から、なんちゃっての写経を地味にやっているが
(でも、文字はキレイにならない・・涙)
来年からは、ほんのちょっと本気度があがるので、ちょうどよかった。


塗香づくりに使うのは天然香料。
半透明の白い容器に入った白檀、龍脳、丁子、桂皮などが
丸いテーブルに並べてあり、ひとつずつ匂いを嗅がせていただいた。


いかにもの仏教系から、漢方薬系・カレースパイス系と実に様々な匂いだった。
本当に個性的な香り。
これを混ぜたら、一体どうなるんだろう??と興味津津。


まず、これから作る塗香の名前を考えてくださいと言われた。
え?
名前??

つけた名前に向かって香りが作られていくとの説明にビックリ。


<光>という文字が頭に浮かんだので、
これを入れようと思った。


写経の前だから、いろいろ整えてからやりたいと考えた。
そこで<光整>になったのだが、
これをどう読むのか、自分でもわからない。
(しいていえば、コーセーになるんだろうけど、
 読み方はあまり気にしなくてもいいみたいだった)


調製の途中で、香りを確認させていただいたが、
なんとなくだけど、<収束していく感じ>が
わかるような気がして面白かった。


あんなに個性的で、
自己主張の激しい香りが含まれているにもかかわらず、
調合すると、ひとつのまとまった香りになるのも不思議だった。


塗香を作っていく間のおしゃべりも楽しかった。

店主が作るお香は「細長い香り」と言われることがあるそうだ。
一緒に学んだ仲間の中には「丸い香り」を作る人がいて、
本当にそんな感じの香りでしたと笑っていた。


香りは目に見えないし、形なんてないはずなのに
細長い香り、丸い香りといった図形メタファーが
すんありあてはまるのが面白い。
「ふわりと広がる」とか「すっと立ちのぼる」といったイメージが浮かぶ。
丸みを帯びた優しい雰囲気とか、スパイシーでシャープな感じとか。


<光整>も、確かに細長い感じがする。
名前の文字もカクカクしているので(?)、
何かを区切っていくとか、
まっすぐに並べなおすとか、
直線的なイメージがあると思った。




辞書の説明だと、
名とは、他と区別するために・何かを表すためにつけた言葉・呼び名であり、
その呼び名によってある概念があらわせる言葉、となっている。


<光整>と名付けることで、ほかの塗香とは区別された存在になり、
その香りは、<光整>という言葉であらわされる、ということになるのだろう。


常用字解(白川静)には、「名」という漢字については、
以下のように書かれていた。
___________________________

 会意。夕と口をとを組み合わせた形。夕は肉の食略系。
口はサイ(これを表わす記号はテキストでは表示できない)で、
神への祈りの文である祝詞を入れる器の形。
子どもが生まれて一定期間すぎると、祖先を祭る廟(みたまや)に
祭肉を供え、祝詞をあげて子どもの成長を告げる名という儀礼を行う。
そのとき、名をつけたので、「な、なづける」の意味となる。
また名声(よい評判・ほまれ)・名望(名声と人望)のように
「ほまれ」の意味にも用いる。
子が生まれて一定の日数が過ぎて、養育の見込みが立つと、
廟に出生を報告する儀礼を行い、幼名をつける。
それを小字・字(あざな)といい、さらに一定期間がすぎると
廟に成長を告げ、命名の儀礼を行うのである。
まだ実名を呼ぶことを避けるために、名と何らかの関係のある
文字が選ばれて字がつけられ、通名として使用した。

___________________________


子どもの成長に従って、次の名前をつけるたびに
儀礼が行われていたということは、
「名」というものには、何か“特別な力”が備わっていると
考えられていたのかもしれない。



『空海の夢』という本にはこんな記述があった。

> 古代言語観念の世界においては、「お前は誰か」と問われて
> 自身の名を言ってしまうことが
> そのまま服従を意味していたという事情があった。


名前には、昔からパワーがあると考えられていたんだろうなぁ。

「名前」を重要なアイテムとして扱う物語は
いろいろあったように思う。
エジプト神話に登場するイシスの物語にも
太陽神ラーの秘密の名前を手に入れるくだりがあったし、
「千と千尋の神隠し」にも、名前が持つ力を象徴するシーンがあった。



「つけた名前に向かって香りが作られていく」

子どもの名前を付けた時のことを思い出した。
名前を付けることによって、
方向性のようなものが定まるのかもしれないな。


名前の持つ力が感じられた経験だった。












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2014年 10月 07日

維持

カテゴリー かんがえごと





201410P4193191


暑かったり寒かったりで、まだ衣更えをしていない・・・


夫に扇風機をしまってほしいと要請しているのだが、やってくれない。
なので扇風機も出したまま。
(自分でやればいいんだけど、分解が面倒・・・)



過去におうちのダイエットとか断捨離とか
いろいろやった経緯があるが、これって終わりがないんだよな。

<維持する努力>が要求されるからだと思うが。


顔でも身体でも衣服でも、
きれいに洗ったからそれで終わりじゃなくて
日々汚れるから、その都度洗って、
いい状態を保つという行為は欠かせない。

維持するのって、簡単じゃないと思う。


身体に関して言えば、
年を取ればとるほど、メンテナンス費用がかかる。


若いころは「より〇〇」というプラスアルファだったはずなのに、
今は、現状維持にも一苦労。
維持できない部分だってたくさんあるし・・・




だいぶモノとの戦いは下火になってきたけれど、
たまに暴発することがあるので、
気を抜くわけにはいかない。




生活の達人たちの言葉を脳と胸に刻みこみたいところだが、
最近のモノ忘れのすさまじさには目を見張るものがある。


> もはや自分を表現するわけでもなく
> 人生の質を高めるわけでもない所有物は
> きっぱり処分しましょう。
>          タレン・ミーダナー



> 毎日使うモノの質が上がると誰に見せるわけでもないのに
> 自分の中に自信と確信が育つのです。
> 暮らしの満足度が上がり、余計なものは欲しくなくなります。
>                      金子由紀子



モノを減らすだけではなく、今持っているもの、
これから所有するモノとの付き合い方も大事なのだろう。


数年おきに目を通す加藤ゑみ子先生のご本には、
大切なものの手入れが美しい身のこなしを育てるから、
良質なものを丁寧に扱うことの大切さが書かれていた。
美しい身のこなし・・・ばたばたしていると全く縁がなくなってしまう。


代々続いている、格のある家では、
上質の物を長く大切に使うそうだが、
これだって、ゆとりと余裕がなきゃ無理だ。


加藤先生は、<贅沢なもの>と<高価なもの>の違いについて
書かれていたが、これはかなり「うーーーーん」だった。

贅沢なものというのは、使う人を選ぶという。
なぜなら、使う側にそれなりの手間と時間を要求するから。
手間と時間をかけられない人間には維持できないんだろうな、きっと。
贅沢な物に囲まれた暮らしをしていた昔の貴族に
大勢の使用人がいたのはそのせいか???


高価なものというのは、文字通り、値段が高いものなので、
お金を出しさせすれば買える。
ただ、それだけのお金があるかどうかとか、
調度品に100万出せるかとか、そういう問題はあるが。


現時点の生活状況から考えると、贅沢なものも高価なものもムリ。
求めるとしたら、快適さとか居心地のよさだろうな。


長い長いモラトリアムを経て、
春先に夫が長年堆積した所有物をかなり処分したせいで、
居心地は、去年よりだいぶよくなった。


週末は地元の図書館に行くくらいで、
ずっと家にいるという日も結構ある。


住んでいる場所の居心地がよくなれば、外に出てって、
<居心地を良くしてくれるかもしれない何か>を買って帰ってくる行動は
減っていくのかもしれない。


ファジー機能のついた「20世紀掃除機」を卒業して、
軽くて吸引力の強い「21世紀掃除機」を購入したことも大きいかも。
掃除機をかけるのが楽しいなんて、
小さい子どもみたいだと思うけど、
掃除機を買い替えたら、本当にそういう感じになった。
楽しければ、がんばらなくてもやるんだよな。


「住環境を良くする努力=楽しいこと」になるように、
もう少しモノを減らして、ハタキをかけやすくしたいものだ。
コンランショップで一目惚れして連れて帰ってきた羽毛のハタキは
やっぱり素晴らしい。


掃除用具にこだわるのも、大事なことかもしれないなぁ。
家事全般を頑張ろうって気になるような、
かっこいいエプロンでも探してみようかな。



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