2010年 12月 14日
自分という井戸を掘る
12/5に安藤裕子さんのライブに行ってきた。
会場は国際フォーラム「ホールA」。
ここは客席が5012席あるそうだが、ほぼ満席。
これだけの人数がいるのに、演奏中は実に静か。
演奏が終わるとホール全体に整然とした拍手が響き渡るので、
なんだかクラッシックコンサートのようだった。
ほぼ日手帳2011の9/3のページには、こんな言葉がある。
>ほんとうの意味で俳優と呼べる人は
>とくべつに優れた何かを持っている人です。
>何かを諦めながら、猛烈な努力をして、
>自分という井戸を掘り続けた人たちっていうのが、
>ぼくが抱いている「かっこいい俳優」のイメージです。
>—田口トモロヲさんが『あのひとの本棚。』の中で
安藤裕子さんは女優を目指していたそうだ。
(とってもってもキレイだし!)
でもあまり日の目を見る機会はなく、歌の道へ来た。
2年くらい前のツアーの様子を収録したDVDだったと思うが
「歌だったら誰かが見つけてくれると思った」
というようなことを話していた。
田口トモロヲさんがお書きになっている、
>何かを諦めながら、猛烈な努力をして、
>自分という井戸を掘り続けた人たち
の中に安藤さんもいるかもしれないなぁ・・・
彼女の曲で「隣人に光が差すとき」というのがある。
おそらく彼女の実体験に基づくものなのだろう。
それだけに、似たような気持を持ったことがある場合、
とても感情移入しやすく、共鳴(?)してしまうと結構大変。
この曲のことを「聴くのに勇気がいる」と思う人は少なくないらしい。
私も「えいっ」と少しだけ気合いを入れて聴くことが多い。
初めて聴いた時、号泣した。
その後も、しばらくは聴くたびに泣いていた。
今でも、自分のコンディションによっては、涙目になる。
>アナタニナリタイ コレジャタリナイ
>アナタニナリタイ コレジャタリナイ
私には具体的な「アナタ」はいないけれど、このフレーズを聴くと、
自分以外の誰かになりたくてなりたくて仕方なかった十代の頃の
感情が溢れ出してきてどうしようもなくなる。
完全に忘れていたはずなのに。
ここ十数年、こんな風に感じたことなど一度もなかったのに。
思い出さないだけで、記憶の中から消えることはないのかもしれない。
もっとも安藤さんの詞はこういう「痛みに刺さる系」は
それほど多くはないと思う。
それよりも、彼女独特の不思議な言葉の世界に浸りきって
迷い込みたくなる誘惑の方がずっと強い。
だから、静かにじっくり、全身で聴きたくなるんだろうな。
約5000の客席が埋まっているホールが
水を打ったように静まり返っても不思議じゃないと思った。
12/5のライブの4番目は「New World」だった。
>風吹けばいつも絡まって 名を問えば「我は迷子なり」
>名乗って手を取りたいよ 君の
>出会いはいつも 定めか悪戯
>みるみるうちに膨らむ 似た者同士がKey word
>何故だかわかるの そういうの
>出会いは定めさ
>出会いは定めなんだ
どこからこんな詞が降ってくるんだろう???
それとも彼女が掘り続けた井戸から湧き上がってくるのだろうか?
曲と曲の間のおしゃべりも楽しい。
「リハーサルで楽器に頭ぶつけて割れましたー
見えますかー?」
明和電機の社長ブログによると、この楽器というのは、
「オタマトーンジャンボ」のことらしい。
同じ会場に社長さんもいらしてたんだー!!
オタマトーンジャンボがステージに登場した時は、
「参観日に子どもを見に来た親の気分」だったそうだ。
なんか、とっても、よーくわかるわ・・・(苦笑)
「置いてきぼりにしてきた気持ちを歌った曲」という
紹介があって始まった9曲目は「court」。
>あなたに似合う 薄いガラスのグラス
>街で見つけて 部屋に飾るんだよ
>猫脚椅子に丸いテーブル並べ
>明日もきっと 続けられるまで
>坂を見上げれば 季節も終わり告げて
>「さよなら」
>なのにまだ 追いつけないまま
>走ったら 胸に過ぎる痛み
>透き通ってゆける気がしてたのに
薄いガラスのグラスが似合いそうなひとも、
猫脚椅子も、私の人生には登場していないけれど、
「どうしようもなく手が届かない」と感じて
諦めてきたこと、心の中から消し去ろうとしてきたことが
なんとなく浮かんでくる。
人生のどこかで「置いてきぼり」にしてきたことって、
思い出さない(思い出せない)だけで、実はたくさん
あるんだろうなぁ。
「生きているといろいろある
置いてきぼりにしていくことや気持ち
生きていたとしても一生逢えない人
戻れない時間
悲しいけど、その続きも楽しみにしていきたい」
こんな感じのお話の後で始まった10曲目は「忘れ物の森」
>未来がもしもの呪縛に囚われ
>足を 止めていた
>でも生きていたいの
>誰かに伝えていたいの
このフレーズは、私にとっては少々重い。
失敗を恐れずに思い切ってやってみることが苦手なので、
これはちょっとだけ「痛みに刺さる系」だと思う。
思い切ってやってみることを避けると「可能性」を保留できる。
実際にはやらないことで
「もし、やったとしたら、うまくいくかもしれない」
を永遠に残せる。(苦笑)
これが、私にとっての「もしもの呪縛」。
結局は、可能性の保留なんかじゃなくて、
同じ場所に滞留しているだけなんだけど・・・
16曲目の「歩く」の前のお話はなんだか心にしみた。
「頑張っても頑張ってもできなくて
くやしいことばっかり
そうやっているうちに
逢いたい人にも逢えなくなって・・・
家族がいるなら電話して
声を聞いてから眠りについてください
憎たらしく思えても
声を覚えていてほしい」
「歩く」
>心が きっと幼いんでしょう
>あなたのこと知ろうともせず 見誤っていた
>傷を付けることにだけ長けて
>牙をむけば 安らぐように
(中略)
>あなたの残したものを見つけ 胸に抱く
>今日はこれに名を付け 抱いて眠ろうと
>そして上る朝日に そっとキスを送り
>いつも通りの笑顔で きっと始めようと
>あなたが私に教えてくれた多くのこと
>今になって甦ってくる
>顔が少し似始めたようで
>鏡を見て 笑ってみせる
(中略)
>決して
>あなたを忘れないと 強く胸に刻み
>あなたの名を想っては 明日を迎えよう
>やがて空は動いて そっと星を降らす
>終わる今日を流して 夜は走り去る
これも彼女の実体験と彼女が掘り続けた井戸から
生まれた歌なんだろうなと思う。
深い想い。
切ない気持ち。
それを表現できる言葉。
使いこなすだけの技量が必要だけど、
改めて日本語ってスゴイと感じた。
アンコールの最初の曲は「青い空」
この曲の前のお話も印象的だった。
「10代の女の子からのもらった手紙がきっかけで
生まれた歌
手紙には『助けてほしい』と書いてあった
でも、どうしようもない
私には何もできない
だから、特に何もすることはなかった
もう道が見えないような人がいたとしても
私は『絶対明日はいいことあるよ』とは言えない
人が生きていく中で
一生辛いことばかりの人もいる
私はラッキーだった
辛いこともあったけれど
たくさんの人に会えて、運がよかった
自分の先が見えない時、屋上から空を見ていた
これだけきれいな空を独り占めできるなら
明日もくるんじゃないかって
きれいな空が見えたらいい
きれいな空を見上げてほしい
思いとどまって前に進んでほしい」
>私は『絶対明日はいいことあるよ』とは言えない
これを聞いて、彼女はやっぱり、
「何かを諦めながら、猛烈な努力をして
自分という井戸を掘り続けた」んじゃないかなぁと思った。
最後の「問うてる」も、とてもいい歌。
「問うこと」って大事だと思う。
何かについて問われると、
そのことについて、自分がどれだけ知っているか、
どれだけ知らないか、とてもよくわかる。
わかった気になっていたことに気付かされた時、
鋭い痛みを感じる時もある。
恥ずかしくなることもある。
自分という井戸を掘る方法はたくさんあると思うけれど、
自分に対してたくさんの問いを発することも、とても大切なんだろう。
「自分」というのは、いつもそこにあるし、
いつも一緒にいる存在なんだけど、
改めて「自分に対して問う」ことでしか、わからないことって
たくさんあると思うから。
コメントは受け付けていません。