2021年
2月
14日
子どもの頃から甘えるのが下手でずいぶん損してきたと思う。
男性に何かを頼むのがとても苦手だ。
男性は女性に頼られたいと思ってるとかいう人がいるが、
それは人によって違うと思う。
男性に頼るくらいなら自分でやる。
女性が甘い言葉でお願いすると、男性は喜ぶとかいう人もいる。
甘えるって私には絶対無理。
夫からは「言い方。それはお願いじゃなくて命令」と言われる。
それは正しい。
夫に対しては常々「自分のモノ、片づけて」
「お風呂掃除して」と言っているから。
でも「宝石買って、ブランドバッグ買って」などと
言ったことは一度もない。
彼に頼むくらいなら自分で買う。
と言っても、今のところ、着飾ってお出かけする機会なんてないけど。
我从小孩子的时候起就不擅长撒娇,觉得很吃亏。
我不喜欢请男性帮忙。
有人说男性想被女性依靠,可是我想那是因人而异的。
与其依靠男性,不如自己干。
有人说女性撒娇地拜托的话,男性会很高兴。
我怎么也不会撒娇。
我老公说‟你的口气不是拜托而是命令”
他说得对。
我常常对他说‟把你的东西收拾了”,‟把浴室打扫了”
但是我对他没说过‟给我买个珠宝首饰、品牌包吧。”
与其求他,不如自己买。
虽然现在没有机会穿上盛装打扮出门。
2020年
11月
15日
匂いの記憶というのは、長期間残るものらしい。
言語化されないので、意識することはほとんどないが、
同じ香りに出会ったときに、すっかり忘れていたことを思い出す。
海の匂いは、子供の頃の海水浴の思い出につながる。
ちょっとだけ生臭いような潮の香りは、
遠い夏の記憶を呼び起こす。
雨の匂いは、最近感じることが少なくなった。
数年前、地下鉄を降りたときに雨の匂いを感じて
「雨が降ってるかもしれない」
と夫に言ったら笑われたが、地上に出たら雨が降っていた。
雪の匂いも、感じなくなった。
子供の頃の冬の朝、布団の中で、
冷たくて尖った匂いを感じた日は雪が積もっていた。
「カエルの匂い」も子供の頃の記憶だ。
これは、父の実家の周辺にある水田の匂いのことだが、
そこにはカエルがたくさんいたので、
「カエルの匂い」と呼んでいた。
香港に行くと「香港の匂い」がする。
八角の香りが混ざった少し油っぽい匂いを感じると、
香港にいることを実感する。
韓国の扶余の古いバスターミナルの待合室は、
とても不思議な匂いがした。
それは、化学薬品のような、植物のような、
何とも言えない匂いだった。
花火のにおいは夏の定番だ。
毎年、8月下旬に実家の庭で花火大会をやっていた。
しめくくりはいつも線香花火だ。
金色の火花と火薬のにおいが夏の終わりの象徴だった。
今年の花火大会はできなかったが、
来年は夏の終わりの匂いをしっかり味わいたい。
气味的记忆似乎会长期残留。
一般不会被语言化,所以几乎没有意识到,
但是在遇到同样的气味的时候,
会想起完全忘记了的事情。
大海的气味能让我想起小时候的海水浴。
稍微有点儿腥味的海水气味,
唤起了遥远夏的天的记忆。
最近很少感觉到雨的气味了。
几年前下地铁的时候,我感觉到了雨的气味。
我对我老公说“现在可能在下雨。”
他听了后笑了,但是一出车站外面就在下雨。
雪的气味也感觉不到了。
小时候冬天的早上,
在被子里感受到又冷又冲鼻子的气味的日子,
院子里总是积着雪。
“青蛙的气味”也是小时候的记忆。
这是我父亲老家附近的水田的气味。
那里有很多青蛙,所以我叫它“青蛙的气味”。
香港有“香港的气味”。
一闻到混合了八角香和油腻的气味,
我就感觉到我正在香港。
韩国扶余的旧巴士候车室里有一股不可思议的气味。
那是像化学药品一样,像植物一样,无法形容的气味。
烟花的气味是夏天的必备品。
每年八月下旬都会在老家的庭院里放烟花。
烟花总是昙花一现。
金色的火花和火药的气味是夏天结束的象征。
今年没能放烟花。
我希望闻到明年夏天结束的气味。
2020年
10月
25日
子供の頃、庭に柿の木があった。
柿と言っても渋柿である。
その実は筆の先のような形で、
「筆柿」という種類に似ていたが、
「筆柿」よりはるかに巨大だった。
自重に耐えられず、色づく前に落ちてしまうことも多かった。
柿の実がオレンジ色になると、
父は柿の木に梯子をかけてのぼり、実をとった。
取った柿の実は渋抜きする。
まず、乾いた布で拭いて汚れを落とす。
次に柿と焼酎を厚手のビニール袋に入れる。
それをプラスチックの容器に入れる。
その容器を2週間ほど物置に置いておく。
渋みが抜けて甘くなり、柿は柔らかいゼリー状になる。
鮮やかなオレンジ色の甘い柿を
スプーンですくって食べるのが好きだった。
一度だけ、渋味が抜け切っていなかったことがあった。
口に入れた途端、口内が砂で一杯になったような感じがした。
長野県に住んでいた伯父もこの柔らかい柿が好きだった。
彼は毎年野菜や味噌を父に送ってくれるので、
父はお礼として、この柿を送っていた。
12年前に実家を建て替えた時、柿の木は切ってしまった。
伯父は他界してしまった。
柿の季節になると、スプーンですくって食べた、
あの柿の味が恋しくなる。
小时候,院子里有两棵柿子树。
说是柿子,其实是涩柿子。
※日本的柿子大多是甜柿子。
形状跟笔尖一样的,和“笔柿”的种类相似,
可是比“笔柿”大得多。
无法承受自重,往往会在上色前就掉下去。
当柿子的果实变成橙色的时候,
我父亲把梯子搭在柿子树上,摘下果实。
摘下的柿子要去涩。
最初用干布擦去污垢。
然后把柿子和烧酒放进一个厚塑料袋里。
再把那个放进一个塑料容器里。
那个容器放在小仓库里两周左右。
涩味就消失了,变得很甜,柿子变成柔软的果冻状。
我喜欢用勺子舀着鲜橙色的甜柿子吃。
只有一次,涩味没完全去掉。
刚一放进嘴里,就觉得嘴里好像满是沙子。
住在长野县的大伯也喜欢那种软柿子。
因为他每年都会给我父亲寄蔬菜和大酱,
所以我父亲为了答谢他,每次都回赠那种柿子。
12年前老家重新盖房子的时候,两棵柿子树被砍掉了。
大伯也去世了。
一到柿子的季节,就怀念用勺子舀着吃的那种柿子的味道。
2013年
10月
07日
ソラマチに行った時に、墨田区のパンフレットをいろいろもらってきた。
その時に江戸東京博物館の資料があった。
江戸東京博物館 開館20周年記念特別展
明治のこころ -モースが見た庶民のくらし-
平成25年9月14日~12月8日
http://www.asahi.com/event/morse2013//
これがとっても面白そうだったので、夫に
「12月8日までに行きたい」と話したところ、
あっさり、「今週末に行こう」ということになった。
別に許可をもらう必要はないんだけど、
一人で行くとしたら、その間、息子をどうするかという問題があるし、
息子と私と二人で行くのは、とっても気が進まないし(苦笑)、
家族で行って、男女別行動というのが一番ラク・・・私にとっては。
10月6日。
10時過ぎに家を出て、江戸東京博物館へ。
思ったより建物は大きかった。
コレが建つ前に、ココには、いったい何があったんだろう??
ネットで検索したけど、これといって情報はなかった。
開館は1993年3月28日。
バブル期に建てられたので、
膨大な建築費と膨大な管理費がかかっているというコメントがあった。
まあ、お金がかかってるのはそうだろうなぁ・・・

まず、お目当ての『開館20周年記念特別展』へGO!
建物の横に、乗客のいない観光バスが何台か停まっていたので、
混んでいるかと思ったけれど、そうでもなくかった。
こまごまとした面白いものがたくさん!
こういう展示は、上野の美術展みたいな、
前にいる人たちの頭の間から見る、みたいなのはムリなので、
会場内の人数が多くなくてよかった。
上品な雰囲気の初老のご婦人(外国人)は、
モースさんのメモを熱心に読んでいた。
英語圏の若い人たちは、筆記体を使うことがほとんどなく、
あまり読めなくなっているという話をネットで見かけたけれど、
このご婦人は、走り書きみたいな筆記体でも大丈夫なんだろうな。
私は、五線譜みたいなノートに筆記体を練習させられた世代だけど、
英語の授業で筆記体を習うなんて「昔の話」なんだろうなぁ。
それにしても、モースさんはスゴイ。
小さい茶碗や下駄くらいならともかく、
大きな看板や、巡り地蔵なんていうオオモノまで
コレクションしている。
※巡り地蔵
厨子の中に子どもの無事や成長を祈願する子安地蔵が安置されている。
かなり大きいものだけれど、このお地蔵さんを厨子ごと背負って、
家々を訪ねまわる人がいたそうだ。
櫛や簪、大工道具などの中で、使った痕跡が見られるものは、
その場で譲り受けたものも含まれているらしい。
モースさんは大森貝塚の発見で有名。
縄文土器の名前が彼から来ているとは知らなかった。
大森貝塚の土器には網目模様がついていた。
モースさんはこれを「cord marked pottery」と呼んだ。
索紋土器という意味だが、日本の学者が【縄文】と訳したそうだ。
縄文土器にも最近興味がでてきた。
火焔型土器のカタチは、ホントにすごい。
実物を自分の目で見てみたい。
こういうところにも行ってみたいなぁ。
↓
http://www.najomon.com/page_najomon/yagai.html
農と縄文の体験実習館「なじょもん」
新潟県中魚沼郡津南町
それにしても、日本のコマゴマしたものって
やっぱり見てて楽しいなぁ。
お茶道具のミニチュアとか、商店の店舗模型とか、
本物そっくりに丁寧に作ってあって、とてもよかった。
会場の出口近くには「生き人形」というのが展示してあった。
人間に見えるかというと、ちょっと違うけど、
ほぼ等身大なので、迫力がある。
コレもお船に積んで持ち帰ったのかー
展示会場の外側では、いろいろなものを売っていた。
布製品やら、掃除道具やら、日用雑貨やら、
『古き良きニッポン』のイメージを感じさせるものばかり。
ああいう展示を見たあとでは、欲しくなるものばかり(笑)。
この展示会の図録も販売していた。
ものすごく欲しかったけど、
Amazonでも買えるのがわかっていたので、
とりあえず我慢。
冷静になってから、購入するかどうかを決めよう。
モースさんの本は、地元の図書館でかなり所蔵していることがわかった。
今回の展示の中には、著作から引用していると思われる文章が
いくつも掲示してあった。
彼の本が読みたくなるような文章ばかりだった。
12時近くになっていたので、
混雑する前に7Fのレストラン「桜茶寮」へ。
窓際の席だとかなり見晴らしがよさそうだったが、
残念ながら奥側の席だった。
息子はオトナと同じものを注文し(ざるそば+松茸ごはんのセット)
わざびとしば漬け以外はキレイにペロリと平らげた。
食後は併設の図書館へ(レストランと同じく7F)。
息子は早速マンガを見つけて、読みふけっていた。
私と夫は映像資料のコーナーへ。
テツの夫は地下鉄開通の際の白黒映像を見ていた。
私は田園調布に建てられた住宅の移築についての映像を見た。
田園調布→江戸東京たてもの園
http://tatemonoen.jp/
文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、
復元・保存・展示する野外博物館
田園調布というのは昔から知っていたけれど、
これを開発した「田園都市株式会社」なんて、ちっとも知らなかった。
wikiによると・・・
______________________________
田園都市株式会社は理想的な住宅地「田園都市」開発を目的に
1918年(大正7年) に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた会社で、
現在の東京急行電鉄・東急不動産の始祖に当たる。
1922年に目黒区、品川区にまたがる洗足田園都市、
翌年大田区の多摩川台地区(現在の田園調布)の分譲を開始し、
またその地の足の便の確保のため鉄道事業を営んだ。
1928年、子会社であった目黒蒲田電鉄に吸収合併された。
その開発手法は後に東京急行電鉄による多摩田園都市開発に
応用されることになる。
______________________________
映像資料にあった、田園調布から移築された住宅は、このページのW7。
http://tatemonoen.jp/area/west.html
『田園調布の家(大川邸)』 1925年(大正14)
映像資料が作成されたのは20年くらい前だったので、
大川邸の奥様のインタビューも収録されていた。
とてもおしゃれなお宅なのに、水道はなくて、
井戸を掘るところからスタート。
20メートルほど掘って、やっと水が出て、万歳したそうだ。
トイレは水洗だったので、奥様と女中さん(!)とで、
トイレ用の水をくみ上げて、タンクに入れていたとのこと。
電気代は恐ろしく高くて、とても払えなくて、
暖房には木炭など代替のものを使っていたそうだ。
このお宅の大きな特徴は、和室がないこと、
家の中心となる一番いい場所には、
家族のためのリビングがあること。
(これまでは、一番いい場所は応接間だった)
家の組み立てには、アメリカの技術を取り入れているそうで、
木材を接続するのにボルトをガンガン使用。
さびないのかなぁ・・・??
日本の技術の場合、木と木を継ぐときには、
端っこを複雑な形に切って、
互いに組み込み合うようにして、釘は使わないらしい。
昔、日本にたくさんの木が生えていた時代には、
建物を建てる時には、
一つの山から必要な木材をすべて調達していたそうだ。
建物の西側には、山の西側に生えていた木を使うなどして、
もともとその木があった場所と似た環境のところに
置くようにしていたらしい。
木の癖(?)まで考慮して使っていたと
言えるんじゃないのかな。
息子を放っておくといつまでもマンガを
読み続けそうだったので、
6Fの常設展示へ移動することにした。
その2へ続く
http://www.m2-dream.net/?p=9813